ヒトゲノム研究

1 研究の背景


依存性物質は、物質依存症の原因となるのみならず、中には、鎮痛薬などのように、疼痛等の治療薬として役立っているものも多くあります。 実際、モルヒネに代表されるオピオイド性鎮痛薬は、がんなどの術後の痛みを抑えるためにたいへん威力を発揮する薬です。

一般的に、鎮痛薬に対する感受性には大きな個人差があることが知られており、痛みの治療をする上で大きな問題となっています。 しかしながら、今までは、患者さんの鎮痛薬感受性は、時間、コスト、労力をかけた試行錯誤によって調べられてきました。

また、依存の脆弱性または重症化にも大きな個人差があり、同じ依存性物質を同程度摂取しても、深刻な依存症に陥る人と、そうでない人がいて、治療や予防を行う上でも問題となっています。 現在は、深刻な依存に陥るリスクがある人を見分けられないので、このような人たちはリスクを知らずに酒やたばこなど合法な依存性物質を摂取して深刻な依存症になったり、非合法の依存性薬物にまで手を出してしまったりする可能性があり、大きな社会問題を引き起こしています。

2 研究の概要


この個人差が発生する原因の一つに、遺伝的要因(各個人の遺伝子配列の違い)があります。 近年の遺伝子解析技術の進歩により、遺伝子全体のセットであるゲノムを網羅的に対象とした解析または着目する特定の少数個の遺伝子を対象とした解析等の手法を用いて、鎮痛薬感受性の個人差に寄与しうる遺伝的要因を特定することが可能になりました。

私たちのグループは、画一的で強い痛みが生じる下顎形成外科手術(うけ口などの歯の噛み合わせの問題を矯正するための、同程度の痛みを伴う画一的な手術の一つ)に注目し、その術後疼痛管理に必要な鎮痛薬量と患者さんの遺伝子多型との関連をゲノムワイド関連解析(GWAS)(ゲノム全体における遺伝的な個人差と疾患その他の表現型(体質等)などとの関連性を纏めて解析する手法)によって調べ、2番染色体長椀の2q33.3-2q34領域におけるrs2952768という遺伝子多型(主に集団内で1%以上の頻度で見られる遺伝子の塩基配列中の多様性)が手術後24時間におけるオピオイド性鎮痛薬の必要量と有意に関連していることを見出しました(参考図)。


上の図では、オピオイド感受性に関するGWASの結果を示しています。 横軸はゲノム中の二番染色体上の各遺伝子多型の相対的な位置、縦軸は各多型と下顎形成外科手術後24時間のオピオイド鎮痛薬必要量との関連性の解析結果における、各多型の関連性の強さを表しています。 rs2952768多型が最上方にプロットされ、最有力候補多型であることがわかりました。

次に、このrs2952768の遺伝子多型とオピオイド性鎮痛薬必要量との間に見出された関連性は、別の術式である開腹手術における術後疼痛においても再現されました。さらに、物質依存症患者及び他集団の健常者において、オピオイド感受性が低いと考えられるrs2952768多型の対立遺伝子(父母それぞれから由来した遺伝子の配列が異なる場合、その各種類)保有者では、低い依存重症度の指標及びパーソナリティ質問紙における低い報酬依存スコアとそれぞれ関連していることも分かりました。この遺伝子多型は鎮痛や依存の個別化医療を実施する上で、最有力な遺伝子多型であると考えられました(2012年11月~2013年1月プレス発表)。

また、特定の候補遺伝子を対象とした解析においても、オピオイド受容体OPRM1、G蛋白質活性型内向き整流性カリウムチャネル遺伝子GIRK2、カルシウムチャネル遺伝子CACNA1E、アドレナリン受容体遺伝子ADRB2等、鎮痛または痛みのメカニズムに関わる様々な遺伝子における遺伝子多型がオピオイド性鎮痛薬感受性と関連することが分かりました。

このようにして、オピオイド感受性に関わる遺伝要因を解明することにより、事前に鎮痛薬必要投与量を予測して早期からの適切な疼痛治療を行ったり、事前に依存症が重症化しやすいかどうかを予測して予防や治療に役立てたりするなど、個々人の体質に合わせた疼痛治療及び依存症治療の発展が加速すると考えられます。 例えば、私たちは、これまで同定した鎮痛薬感受性関連多型などを予測変数として、患者個々人に合った鎮痛薬投与量を予測するテーラーメイド疼痛治療を実施しています(2012年1月プレス発表)。