HOME広報活動刊行物 > January 2015 No.016

特集

年頭所感

東京都医学総合研究所 所長田中啓二

田中 啓二

謹賀新年。新年早々の話題としてあまりふさわしくないかもしれませんが、昨年末、私と同世代の人々の訃報に接し、泪しました。

とりわけ先輩・畏友であり、また当研究所の研究評価委員会の委員を長い間務めて頂いた野本明夫先生が喉頭がんでご逝去されましたことは、真に「ウイルス学の巨星墜つ」の感強く痛恨の極みでありました。野本先生は、知る人ぞ知るヘビィースモーカーであり、またワインをこよなく愛したわが国最高のウイルス学者でありました。ワインを片手にタバコの香りと煙をとても楽しんでおられた先生の風景を知る仲間たちには、先生が黄泉の国でも神様を相手に泰然として、紫煙を燻らせる姿が瞼に浮かびます。合掌。

同世代の知己の訃報に接することが度重なりますと、自分の“生と死”の間に何を成すべきかを自問自答している自分がいて、芥川龍之介ではありませんが、遣る瀬ない無常に“漠然とした不安”を感じる次第であります(と言っても実際は、忙しさに塗れて逡巡する時間は余りありませんが・・・)。

このような思いを馳せている最中、俳優高倉健の死去が報じられました。丁度その時、私は学会で中国廈門(Xiamen:旧名Amoy)に赴いていました。廈門は台湾海峡に面した港湾都市であり、中国随一の景勝地との主催者の言でありましたが、確かに非難轟々の大気汚染とは無縁の群青棚引く海と空に溢れた快晴日を満喫しました。私はこれまで北京・上海・蘇州・西安など中国の主要都市を幾度か訪問し、その発展状況を(つぶさ)に観てきましたが、ここ廈門もその例に漏れず騎虎の勢いで発展を遂げる様子が都市を整備する槌音つちおとや中国各地からの観光客の(おびただしさから窺われました。かつてのイギリスの租借地であった雰囲気が街中に散在している廈門は、同時に中国古来の歴史遺跡も多く保存されており、古代と近代がほどよく調和した美しい街(大都会)でした。その厦門で驚いたことに、「高倉健」死去のニュースがTVで速報され、多くのチャネルが特別番組を連日流していました。庶民に人気の中国紙・新京報も、映画人としての高倉健の活動史を詳細に解説しながら、哀悼の意をトップニュースで報じていました。私を含め団塊の世代の(男たちの)多くは、「網走番外地」や「日本残侠伝」などの任侠・やくざ映画に酔いしれた若い頃の記憶が甦ってきますが、その後の「幸せの黄色いハンカチ」などの数々の名作においても、ストイックな印象の強い高倉健は「おとこの中の男」であり、私の憧憬の的でした。その高倉健が中国でこれほどの人気とは、とても不思議に思いましたが、偶然、中国に滞在していて、熱く心温まる報道に触れた印象を申し上げれば、洋の東西を問わず偉大な人物が培ってきた文化交流には国境はないという感慨でした。

昨年を振返りますと、科学の世界では、やはり「研究不正」という言葉が報道機関・週刊誌、そして世間を賑わせ騒がせました。

「研究不正」という言葉は流行語・新語ではなく、「研究」という世界の誕生当初から実在し、科学の発展と表裏の関係にあって、今更ながら根が深いと断じざるを得ない学術の宿命であります。

科学は、真実のみが存在し、誰もが犯すことのできない正義に守られた神聖な領域であると考えられがちでありますが、実際には、悪意に基づいた愚行が罷り通ってきた面が多々あったことを歴史が物語っております。愚かで浅はかと言ってしまえばそれまでですが、研究不正が常態化していると声高に批判をするのも付和雷同の感を拭えません。大部分の研究者たちは、日夜、誠実に、かつ寝食を惜しんで研究に邁進しているのです。

昨年の年明け、世間・科学界を震撼させた「世紀の大発見」が瞬く間に一転して「捏造疑惑」の汚名で糾弾されるという事態となりましたが、日本を代表する研究機関(しかも近年、最高の成果を挙げてきたとの評価で内外を問わず称讃を浴びてきた生命科学研究所)で発生したことは極めて不幸なことでした。さらに憂慮すべきは、このような研究不正が日本の最高学府と称されるトップ大学(そしてその他の多くの大学)で続発していることであります。

学術に拘わる問題が、TV・週刊誌を賑わすゴシップ記事として扱われたことは、真摯に反省すべきでありますが、その一部が過剰に喧伝された結果、多くの研究者たちがこの悪癖に染まっているかの印象を社会に広く与えたことは、同じ科学者として慚愧の念に耐えません。報道機関の厳しい批判は、科学の世界に籍を置く当事者として甘受すべきこととは思いますが、適切な分析と事実に基づく報道という観点からするとやや冷静さを欠いたかと思われる報道が洪水のように流されたことは、残念でした。

度重なる研究不正の発生を、研究の過度な競争が招いた不幸な顛末として片づけるわけにはまいりません。重要なことは、研究成果を出すということは一方で研究者の功名心をそそのかし、そして、いわゆる一流誌への発表が(これ自体容易なことではありませんが、)出世や名声を得る道具として大きな手段・メルクマールになっているという現実を冷静に見極めつつ、研究不正を起こさない効果的な方策を講ずることであります。

研究不正は、「欲意に満ちた一部の研究者たちが打算の陥穽(かんせい)に墜ちたもの」と喧伝されますが、その本質は、奥底に潜む研究者たちの倫理感の喪失にあります。  

戦後の民主主義に立ち、科学技術の振興こそが資源に乏しい日本の発展を支える基盤であるという論理で科学研究が奨励され、学術において自由な精神が謳歌されました。一方で、わが国独自の伝統や倫理観を蔑ろにし、大学及び科学者たちは「性善説」と「性悪説」の狭間で無関心を装い、手を拱(こまね)いてきた結果が今日の状況を招いたと言っても過言ではないと思うのであります。即ち、自由の獲得の代償に科学者たちは無関心の中で倫理観を喪失させたということを、さらに、この結果が教育・学術の関係者の不作為による所作であるということを強く認識するべきでしょう。これまで進めてきた(科学・倫理)教育の在り方を根本的に見直す必要があると強く思います。

一連の不正事件からの教訓として、研究成果の管理と成果の発表手続きに重大な欠陥があったことが挙げられます。

研究者が所属する機関が不正に対して成し得ることには、限界がありますが、研究者個人の自由に任せていた実験ノートを機関としての管理(公正な記録として日々の研究をトレースするというこの作法を学ぶこと)に改め、発表論文の事前点検などの対策を講ずることといたしました。これにより、公正な研究実施の作法を学び、かつ、その取り組みによって研究の不正防止に結びつけたいと思っております。もとより、これですべて防止できるとは考えませんが、有効な策の一つと思っています。

研究の不正防止は当事者を守り、関係する研究者たちを守り、引いては研究所を守ることに?がります。このためには先ほどの手立てに加え、究極の手段は、倫理観の立て直しであり、構築が急務であると認識しております。

要は、厳しい倫理性に裏付けられた公正な論文を執筆すること、このことによってしか研究者としての未来はないという意識が支配する、そうした科学の世界を確立することであります。悪貨が良貨を駆逐するのではなく、良貨が悪貨を駆逐する如く、歴史の舞台で批評に堪え得る健全な論文の発表によってしか危機に瀕した生命医科学を救う有効な手段はないと確信いたします。

都医学研が(5カ年毎に研究体制を見直す)プロジェクト制度を導入してから10年、この4月から第3期プロジェクト研究が発足します。

第1期~第2期の10年間は、旧3研究所(懐かしさが漂う神経研・精神研・臨床研)の統合・再編に向けての取り組みに邁進、旧研究所の意識は名称とともに払拭し、多くの輝かしい成果に彩られた結果、今では都医学研を呼称することに何の違和感も感じられなくなってきました。

私は第3期プロジェクトにおける成長こそが、都医学研を発展基調に乗せ、未来永劫の栄光を確保する布石として最も重要であると認識します。そのために第3期プロジェクト制の発足に向けて、多くの方々の協力を仰ぎながら大胆な組織改革などを進め、いわば背水の陣を敷いて取り組んでまいりました。百年の計といえば大袈裟かも知れませんので十年の計としますと、その目論見はほぼ成功しつつあると、確信しています。

科学技術の進歩は永続的でありますが、疾病の“進化”も永続的であります。そのためには研究所もまた永続的に存在することが必要であります。前ニ者(科学技術と疾病)は自然の法則に照合しますと無条件に存続しますが、研究所は、時代の要請に適切に対応して都民・国民の健康福祉に貢献することができなければ、その存続は保証の限りではありません。

そのためには、組織体制を整え、基礎研究と応用研究の両面から有用な成果を輩出して国内外からの信用と名声を勝ち取るとともに、経験豊かな世代が未来を引き継ぐ若い世代の育成に全力を尽くすことが不可欠であります。不惑の年(昔は40歳でしたが、高齢化社会の今日では60歳前後でしょうか、)を遥かに越えた私にとって、現在、最大の楽しみは、若い研究者たちの成長と研究所の発展を見守ることであります。個人と組織の調和、言い換えれば、個人の成長と組織の発展は不可分でありますので、両者の関係はウィンウィンであります。

研究所職員とともに、この関係が良好に成熟してゆくことを目指して、頑張ってまいります。一寸、長くなりましたが新年のご挨拶とさせて頂きます。

ページの先頭へ