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特集

150年前に思いを馳せ
―都医学研の新型コロナウイルスへの取り組み―

副所長(新型コロナ対策特別チーム 統括責任者)糸川 昌成

Itokawa photo

理数系武士団

150年前といえば、それほど遠い昔のことではない。当時の武士階級の教養と言えば、論語や孟子などを学ぶ儒学、君臣のあり方を説く朱子学など、思想や哲学が中心だった頃の話をしてみよう。キリスト教を禁教とした幕府が、西洋から入る学問まで禁止してしまったからだ。しかし、8代将軍吉宗が享保の改革で洋書輸入を一部解禁すると、武士階級からも蘭学を学ぶ者たちが出始め、各地に蘭学塾が誕生した。蘭学塾では語学のほかに、化学、物理、天文学、医学など、いわゆる理数系の教育が行われた。蘭学を学んだいわゆる理数系武士団たちは、普段は目立たずモノ作りなどに従事していたが、ひとたび国家的な危機が生じると結束して少人数ながら要所要所を押さえ、不思議な連携をとってこの国を危機から救ったのだ1,2)

たとえば、幕末のコレラ流行における彼らの活躍がある。安政5年(1858年)長崎港に停泊したペリー艦隊所属の米国艦船ミシシッピー号で乗組員にコレラが発生した。すると、たちまち日本中にコレラが蔓延し、当時の人口が100万人程度と推定された江戸庶民の死者数は28万人にも上った3)。戸口にお札を貼って加持祈祷にすがる庶民に対し、蘭方医たちは医学的に対処したのだ。緒方洪庵は医師モストの治療書『医家韻府』(1836)、コンラジの『病学各論』(1836)、カンスタットの『治療書』(1848)を不眠不休で抄訳編集し、1か月で『虎狼痢(ころり)治準(ちじゅん)』と名付けたコレラ治療のガイドラインを緊急出版した。

洪庵は大阪で適塾を開き蘭学を教えていた。教え子は門人帳に記されただけで636人、一説には数千人ともいわれる。日本陸軍の原型を作った大村益次郎、慶應義塾を創設した福沢諭吉、松平春嶽の側近となる橋本佐内、アドレナリンやタカジアスターゼを発見した高峰譲吉もここで学んでいる。

開国に反対する攘夷派から西洋かぶれを意味する『蘭癖』と批判された大名に、幕末の四賢侯のひとり薩摩藩主の島津斉彬(なりあきら)がいた。彼はアジア初の近代的西洋式工場群を作ると、蒸気船を造船し溶鉱炉を建設し、水車動力の洋式紡織機械まで開発したのだ。

イギリスやフランスなど欧米列強がアジア各地を植民地化し、アヘン戦争で東洋一の清国までがイギリスの植民地となるなか、この国が植民地とならずに済んだのはなぜだったのだろう。イギリスから武器の支援を受けた官軍と、フランスから軍事教練を受けた幕府軍の全面衝突の危機を、大政奉還によってぎりぎりで回避できていなかったとしたら、はたして日本の独立は守れていたのだろうか。江戸城無血開城の官軍側の立役者、西郷隆盛があの蘭癖(ヽヽ)大名によって治められた薩摩藩の出身者であったこと、幕府側代表の勝海舟が赤坂田町に氷解塾という私塾を開いて蘭学を教えていたという事実が、これらの問いの答えになっているように思えて仕方ないのだ。

新型コロナ対策特別チーム

黒船とコレラの危機にみまわれた安政の世から、新型コロナウイルスに直面する令和に話を移そう。都医学研は5月20日に新型コロナ対策特別チーム(以下特別チーム)を設置した(表1)。この特別チームは、研究者のみならず事務局から支援部門までを含め3グループ9班で編成されている。都医学研にはウイルス感染を専門に研究するプロジェクトがあり当然ながら特別チームに加わってもらっているが、普段ウイルスとは関連しない研究をしている研究員たちにも新型コロナウイルスと関連する研究を提案してもらい、所内で審議して採択された研究は関連研究班に合流してもらっている(表2)。

表1.新型コロナ対策特別チーム

開発研究グループ
ワクチン
開発班
リーダー:安井文彦 副参事研究員 構成員:感染制御プロジェクト所属職員
抗体検査班 リーダー:小原道法 特任研究員
構成員:感染制御プロジェクト所属職員
糸川昌成 副所長(患者同意関係)
関連研究班 リーダー:齊藤実 副所長
構成員:正井久雄 所長(遺伝研との共同研究)
提案型関連研究が採択された応募研究員
対外連絡調整グループ
契約班 リーダー:青木一正 知的財産活用支援センター長
構成員:活用推進係長
同係主席
同係主任
都立病院等
連絡調整班
リーダー:原田高幸 病院等連携支援センター長
構成員:糸川昌成 副所長
連携推進係長
都庁等連絡班 リーダー:武仲幸雄 研究推進課長
構成員:企画係長
同係主任
研究支援・広報グループ
研究支援班 リーダー:西田淳志 社会健康医学研究センター長 構成員:山﨑修道 主席研究員
機器調整班 リーダー:高松幸雄 研究技術開発室長
構成員:用度係長
庶務係主任
普及広報班 リーダー:武仲幸雄 研究推進課長
構成員:堀内純二郎 主席研究員
普及広報係長

表2.新型コロナウイルス関連研究提案採択課題

研究タイトル応募者名所属プロジェクト
SARS-CoV-2 S タンパク質結合糖脂質の基礎的研究笠原浩二細胞膜研究室
新型コロナウイルス及びその感染症に関する研究提案正井久雄ゲノム動態
新型コロナウイルスワクチンの有効性を高めるワクチンアジュバントの開発種子島幸祐幹細胞
新型コロナウイルス対策のための日本株 BCG 効果の基礎研究岡戶晴生神経細胞分化研究室
新型コロナウイルス感染・重症化に関わる要因の探索池田和隆依存性物質
プロテオーム変動を指標とした新型コロナウイルス感染の宿主応答の解析佐伯泰蛋白質代謝

抗体検査班と研究支援班の合同戦略会議


抗体検査班では、都立・公社14病院に御協力をいただき、外来患者の検査終了後の余剰検体を毎月3,000件いただいて新型コロナウイルスの抗体測定を2021年3月末まで続けている。PCR検査の件数が限られているわが国で、実際の感染者数の推移を把握するために有用な情報が得られると考えるが、治療目的で来院された集団から一般集団を推計するためには健常者の抗体陽性率も必要となる。そこで、都医学研では同意の得られた職員から健康診断の採血検査終了後の余剰検体でも抗体を測定した。3か月後に再測定することで一般集団の抗体を縦断的に検討できると考えている。

抗体検査の他に、安井研究員、小原研究員が中心となり、東京都の特別研究の支援を受け、ワクチン開発を行なっている。コロナウイルスは大変変化しやすいウイルスであることもわかっているが、当研究所では、このようなウイルスの変化にも対応し、将来、新たなコロナウイルスが発生しても即座に対応可能なワクチンを開発し、臨床試験につなげることを目指している。また、遺伝研と共同で、次世代シーケンサーを用いて新型コロナウイルスのRNAゲノムの配列情報を、患者の唾液から直接同定することにより、高精度かつ迅速な新規診断法の開発も行なっている。この研究では、ウイルスの遺伝情報の変化を追跡することも可能であり、感染の伝播や変異が感染性や病状に及ぼす影響についても貴重な情報が得られるのだ。都医学研のホームページには、新型コロナウイルス関連サイトをオープンし、当研究所における新型コロナウイルスに関する研究状況を随時報告している。また、現在世界中で、毎日700報を超える新型コロナウイルス関連の論文が発表されているが、その中から、当研究所の研究者が重要な論文、興味深い論文を選び、一般人向け、研究者向けにわかりやすく説明している。

150年前の科学者のはしりたちに思いを馳せながら、私達は都医学研をあげて新型コロナウイルスに立ち向かっている。

文献

  1. 長沼伸一郎「現代経済学の直観的方法」 講談社 2020
  2. 長沼伸一郎 理数系武士団の研究
    http://pathfind.motion.ne.jp/SSamurai/ScienceSamurai_01.html
  3. 大阪府「虎列刺予防史」 大阪府衛生課 1924年

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