糸川 昌成 著


  • 「脳と心の考古学」
    (糸川昌成著/日本評論社, 2020)
  • 「統合失調症スペクトラムがよくわかる本」
    (糸川昌成 監修/講談社, 2018)
  • 「ウルトラ図解 統合失調症: オールカラー家庭の医学」
    (糸川 昌成 監修/法研、2017年12月8日)
  • 「精神医学の科学と哲学」
    (石原孝二, 信原幸弘, 糸川昌成 編/東京大学出版会、2016年8月)
  • 「科学者が脳と心をつなぐとき~父と母と私が織りなす50年の物語~」
    (糸川昌成著/地域精神保健福祉機構、2016年1月)
  • 「統合失調症が秘密の扉をあけるまで」
    (糸川昌成著/星和書店、2014年3月)
  • 「統合失調症」からの回復を早める本 − 早期治療・早期回復のための最新情報 −
    (糸川昌成著/法研、2013年2月)
  • 臨床家がなぜ研究をするのか − 精神科医が20年の研究の足跡を振り返るとき −
    (糸川昌成著/星和書店、2013年1月)

私の本業は科学者である。具体的には、統合失調症の原因を解明して、根本的な治療法を開発しようと研究をしている。二十三年前、神経の遺伝子の配列を読み解く研究でデビューした。そのうち、患者さんで多く見られる配列の違いを見つけたので、培養細胞を用いて人工的に配列の違いを再現させた神経を使って、その違いがもたらす機能の変化を明らかにした。最近では、マウスの遺伝子を操作して統合失調症のモデルとされる行動変化と脳を解析したり、患者さんから樹立したiPS細胞で神経細胞を作って研究している。つまり、四半世紀近くをかけて、脳の細部へ、よりミクロへと降りていく研究をしてきたことになる。いわば、脳の部品の研究とでもいうのだろうか。

ところが、部品の解体が進めば進むほど、これで統合失調症が分かるのだろうかという疑問がわいてきた。駆け出しの科学者だったころのイメージでは、遺伝子の違いさえ見つかれば統合失調症が解明できるような想像をしていた。まるで、うまく音が出なくなったラジオを分解してみたら、壊れた真空管が見つかるように。なんだ、これだったのかと。この二十年で、科学技術は驚くべき発展を遂げた。人のすべての遺伝子の変化(五十万ヶ所)を一瞬にして解析できてしまう遺伝子チップしかり。遺伝子改変マウス、iPS細胞しかりである。しかし、部品の故障個所が分かっても、いっこうに全体が見えてこないのだ。 脳は、気象現象やマクロ経済と同じ複雑系である。還元主義――ひとつの遺伝子に病態のすべてを原因づける――がなじまない対象である。タイガーウッズのDNAをいくら調べても、天才ゴルファーの遺伝子など見つかりっこないのと同じである。こんなことを考えるようになったのは、科学者としての本業のかたわら、細々とではあるが臨床と接し続けてきたからではないだろうか。抗精神病薬は二十年前と比べると種類も増え、効き方がきめ細かく分かれ、副作用も小さくなった。上手に使うと、昔よりずいぶんと脳を治せるようになった気がする。ただ、薬が脳を治しても、患者さんの生きる人としての回復が達成されるとは限らない。その人が生きてきた文脈が理解され、症状の意味をくみ取られ、ご本人が病気を腑に落ちる物語として描き終えた時、初めて統合失調症から回復できる。すなわち、抗精神病薬は脳を治せるが、魂は治せないのだ。部品の研究は、脳を解明するかもしれない。しかし、遺伝子改変マウスは文脈を生きることがなく、iPS細胞は腑に落ちる物語を語れない。

本業の科学から、ずいぶんと調子のはずれたことを考えるようになったものだと思う。ただし、現行の精神科医療が不完全であり、多くの当事者と御家族が苦しまれている現実を忘れているわけではない。精神科医療の仕組みや制度は、十分に改善される必要がある。また、科学としての精神医学がもっと解明されれば、多くの方の苦悩はずっと軽減されると信じている。

科学者が臨床に触れる瞬間にしか垣間見ることができない風景がある。それは、個人的な体験として、私の胸の内にだけ収めておくのが惜しいものばかりだったような気がする。それならばと、科学者が魂と触れ合うときの不可思議な物語を、これからここで語ってみようかと思いついた次第である。(「統合失調症が秘密の扉をあけるまで」まえがきより)