運動障害プロジェクト

筧 慎治 プロジェクトリーダーが解説します。

Shinji KAKEI

Project Leader

kakei

運動障害プロジェクト

筧 慎治 プロジェクトリーダーが解説します。

Shinji KAKEI

Project Leader

どんなことに役立つの?

神経疾患の複雑な病態を定量的な指標でカーナビのように「見える化」できる新たなナビゲーターを開発することで、より精度の高い診断ができるようになります。

その方法が確立できれば、機能回復の予測や最適なリハビリメニューを提案することも可能です。また、脳の予備能の研究は、将来、アルツハイマー病の予防へとつながる可能性があります。

kakei
脳と運動機能

脳が体を動かす仕組みを解き明かしたい

 

—— 運動障害が起こる脳の病気について教えてください。

脳には大脳、基底核、小脳の3つの主要運動中枢があり、それらが連携して働いています。たとえば、脳卒中では大脳パーキンソン病は基底核脊髄小脳変性症は小脳が主に冒されて運動障害が起こります。しかし、いずれもさまざまな部位が複合的に障害されるため、その病態は複雑かつ多様です。

ところが現状では、この複雑な病態を客観的に表す指標がなく、治療やリハビリは医療者の経験や勘に頼っているのが実情です。

私たちはこれらの中枢の働く仕組みを一つずつ解明し、さらに3つの運動中枢が連動する原理を解明していきたいと考えています。

—— 脳については、まだわからないことが多いのですね。

「手で物をつかむ」という単純な動きでさえ、脳の中で何が起きているか、詳細は誰も説明できません。その歯がゆさが私たちの研究の基本です。

一つ一つ検証していくしかないのですが、小脳に「予測」する機能があることを私たちは実験で明らかにしました。たとえば、テーブルの上のカップを取る場合、脳は今手のある位置を時々刻々認識しながら運動指令を出します。実は、手の位置を知らせる情報は、少し遅れて脳に届きます。遅れはわずかですが、そのままでは手を思いどおりに滑らかに動かすことはできません。にもかかわらず、私たちが手を意のままに動かせるのは、その情報が届く前に小脳が手の現在位置を予測し、補正しているからなのです。脊髄小脳変性症の患者さんはこの予測の機能が低下するため、思っている場所に手を動かすことが難しくなります。

脳は、今手のある位置を時々刻々予測しながら運動指令を出す。
脳は、今手のある位置を時々刻々予測しながら運動指令を出す。
ナビゲーター開発

神経疾患治療のための
ナビゲーターを開発

 

—— 運動障害の研究は治療にもつながるのでしょうか?

研究の成果を治療にフィードバックするために、私たちは神経疾患ナビゲーターの原型を開発しました。これは、体の動きを機能的に異なる3つの成分に分解し、それぞれの成分から病態をあらわす指標を抽出するというユニークなシステムです。患者さんの病態を3つの指標を使って3次元の座標で表現することができるため、患者さんが治療やリハビリで回復してきた時に、病態の変化を座標の位置の移動としてわかりやすく示すことができます。

—— 病気の進行や回復が、きちんとわかるということですね。

そうです。ほかにも、全身の動きを感知するセンサーを導入し、わずかな違いまで分析できるシステムを開発しました。これまで患者さんの小脳機能を評価するには「SARA」という方法が国際標準でした。医師が患者さんの体の動きを診て、8つの項目を5または9段階で評価するものですが、その段階分けはおおまかで、判断に医師の主観が入りやすく、精度の高くないものだったのです。

私たちが開発中の「デジタルSARA」は、全身の動きをミリ単位で数値化できるので、評価の精度を一変すると期待しています。現在、この「デジタルSARA」の国際標準化に向け、世界中の専門家が動き出しています。

未来への展望

アルツハイマー病への応用にも期待

 

—— 今後の展望をお聞かせください。

小脳は脳全体の1割程度の体積しかありませんが、驚くべきことに神経細胞の半分以上が詰まっています。脳には予備力、つまりダメージを受けても代償して回復させる能力があることが知られていますが、小脳は脳の神経回路の中でも最大の予備能を持っています。

そこで、私たちは次の段階として、小脳の予備能を定量化する方法論を確立することを目指しています。この研究がうまく進むと、アルツハイマー病等の他の神経変性疾患の診断や治療にも応用できるかもしれません。

小脳には脳全体の神経細胞の半分以上が詰まっていて、脳の神経回路の中でも最大の予備能を持っていると考えられる。
小脳には脳全体の神経細胞の半分以上が詰まっていて、脳の神経回路の中でも最大の予備能を持っていると考えられる。

—— アルツハイマー病への応用とは、どういうことでしょうか。

原因物質や障害される場所は違いますが、脊髄小脳変性症と、アルツハイマー病は、有害な物質が神経細胞内部に異常に蓄積し、細胞が死んでしまうという同じタイプの病気です。世界中でアルツハイマー病の治療薬の開発競争が行われていますが、これまでのところ候補薬のほとんどが失敗し、実現には至っていません。その反省から、神経細胞がたくさん失われ、脳が萎縮してから治療を始めても遅いらしいということがわかってきました。

つまり、脳が萎縮する前の、まだ予備能が残っている段階を見つけ、治療を開始することが重要なのです。

小脳予備能を評価する私たちの研究が進めば、これがモデルケースとなり、アルツハイマー病への応用も期待できます。


2018年6月25日
運動障害プロジェクトの本多武尊主任研究員らが、正しい運動を実行するための運動学習の仕組みを解明しました.


正しい運動を実行するための運動学習の仕組みの解明
〜意識的な運動のための学習と無意識的な運動のための学習〜

これまでは、1つの運動学習だけで正しい運動を実行することが可能であると考えられてきましたが、今回の研究で、「意識的に正しい運動を実行するための学習」と「無意識的に正しい運動を簡単に実行するための学習」の2つの学習が必要であることを明らかにしました。

1. 研究の背景

日々の生活の中において、みなさんはなにげなく簡単に目の前にあるコップを手に取ることができます。目の前の机の上にコップを置き、そして、手を膝に置き、目の前のコップの位置を確認してください。確認できましたら、目をつぶり、目の前のコップに手を伸ばし、コップを手にとってみてください。大きく間違うことはないと思います。みなさんは当たり前だと言うと思いますが、ロボットで実現するにはとても難しいことです。これをいとも簡単に行えるのは、小脳(注1)注1:小脳
大脳の10分の1程度の大きさしかないが、大脳よりも遥かに多くの神経細胞があり、主に知覚と運動機能に関わるとされる。このため、損傷を受けると運動や平衡感覚に異常を来たすことがある。しかしながら、認知機能にも関わる可能性もあり、未だに小脳機能は明らかでない。
において、運動に関する情報が学習により蓄えられていて、その情報を使うことで精度の高い正確な運動ができると考えられています。では、学習することで得られる運動の情報とは何であるかを考えなくてはなりません。小脳は、「運動を実行する方法」そのものを学習しているのか、それとも、「運動を実行した結果」を学習しているのか、といった二つの考えがあり、およそ30年もの間、研究者の間では意見がわかれていました。

2. 研究の概要

本多研究員らは、「運動を実行する方法」そのものを学習するためには、正しい運動を行うことが必要であり、その正しい運動を実現するためには、間違った運動でも自らの運動の結果を見て「運動を実行した結果」を学習することが重要であると考えました。そこで、視界を右へずらしてしまうプリズム(注2)注2:プリズム
光を分散、屈折、全反射、複屈折させるもので、周囲の空間とは屈折率の異なるガラス等の透明な物質でできている多面体。
レンズをかけた被験者が、利き手で右耳を触れているところから始め、ディスプレイに映し出されるターゲットをタッチする運動を繰り返し行いました。視界が右へとずれてしまうため、最初はターゲットをタッチできず、ターゲットから右の方へ離れたところをタッチしてしまいます。しかし、繰り返していくと学習が進み、ターゲットを正確にタッチできるようになりました。この課題によって、「運動を実行する方法」そのものを学習することを表す「ターゲットにタッチすることで起こる学習」と、「運動を実行した結果」を学習することを表す「ターゲットにタッチできなくても起こる隠れた学習」の2つの学習を発見しました。この実験結果を踏まえて、2つの学習を組み込んだ理論的枠組みを構築し、簡単な実験式を提案しました。そして、この理論によって、間違った運動となる「運動を実行した結果」から学習することで、意識的に正しい運動を行うことを可能とし、正しい運動を行うことで「運動を実行する方法」そのものを学習でき、何も考えなくとも無意識的に精度の高い正しい運動を簡単に行えることがわかりました。

さらに、この理論からは、疾患による小脳へのダメージによって、正しい運動が全くできない、つまり、「運動を実行した結果」から学習することができないケースと、集中しないと正しい運動ができない、つまり、「運動を実行する方法」そのものを学習することできないケースがあることが予測できます。実際に脊髄小脳変性症(注3)注3:脊髄小脳変性症
主に小脳の一部が病気になった時に現れ、歩行時のふらつきや、手の震え、ろれつが回らない等が症状である。動かすことはできるが、上手に動かすことができず、病状は大変ゆっくりと進行する。
の患者さんにこの実験にご参加いただいたところ、予測の通りにそれら2つのケースに分けることができ、これまでにない臨床像を明らかにすることができました。

右に視界がずれるプリズムレンズをかけたとき
右に視界がずれるプリズムレンズをかけたとき、ターゲットにタッチできず、ターゲットから右の方へ離れたところをタッチしてしまいます。しかし、ターゲットをタッチしようとして何度も腕の運動を繰り返していくと、間違った運動の「実行結果」から学習し、意識的に正しい運動ができるようになります。しかし、一生懸命に意識してターゲットをタッチしないと精度良くタッチできません。この意識的な正しい運動を何度も繰り返していくと、正しい運動の「実行方法」を学習していき、慣れていきます。その結果、何も考えずに無意識的に正しい運動ができるようになります。

3. 今後の展望

この研究を基礎として、新しい人工知能(AI)の開発や、制御が難しい人工筋肉等の駆動装置の新たな制御システムの開発に貢献が期待されます。医療分野では、小脳機能の検査ばかりでなく、小脳疾患に対しては小脳機能向上のためのリハビリテーション法の開発、小脳以外の機能を使ったリハビリテーション法の開発、または、脳梗塞や認知症等の小脳以外の脳部位にダメージがあるケースには、小脳で機能補正するようなリハビリテーション法の開発、そして、それらリハビリテーションの効果判定法の開発等、多くの場面での貢献が期待されます。さらに、リハビリテーション同様、効率的な運動学習を考えたスポーツトレーニングへの応用も期待されます。以上のような分野での応用を考え、運動学習における短期的な学習記憶が、長期的な学習記憶へと変わるメカニズムの解明へと研究を進めていきたいと考えています。


用語説明
注1:小脳
大脳の10分の1程度の大きさしかないが、大脳よりも遥かに多くの神経細胞があり、主に知覚と運動機能に関わるとされる。このため、損傷を受けると運動や平衡感覚に異常を来たすことがある。しかしながら、認知機能にも関わる可能性もあり、未だに小脳機能は明らかでない。
注2:プリズム
光を分散、屈折、全反射、複屈折させるもので、周囲の空間とは屈折率の異なるガラス等の透明な物質でできている多面体。
注3:脊髄小脳変性症
主に小脳の一部が病気になった時に現れ、歩行時のふらつきや、手の震え、ろれつが回らない等が症状である。動かすことはできるが、上手に動かすことができず、病状は大変ゆっくりと進行する。