新型コロナウイルスや医学・生命科学全般に関する最新情報

  • HOME
  • 世界各国で行われている研究の紹介

世界で行われている研究紹介 教えてざわこ先生!教えてざわこ先生!


※世界各国で行われている研究成果をご紹介しています。研究成果に対する評価や意見は執筆者の意見です。

一般向け 研究者向け

2023/8/22

ゲノム編集による不安症・鬱病の治療を目指して

文責:橋本 款
図1.

近年、CRISPR-Cas9*1システムを始めとするゲノム編集技術の進歩により、病気の原因となる遺伝子をノックダウン(アウト)・ノックインすることが可能になったため、標的遺伝子を絞りやすい精神・神経系の疾患に対してゲノム編集を用いた治療の研究が精力的に行われています。神経変性疾患の治療に関しては、先月、取り上げましたので(CRISPRシステムによるTDP-43プロテイノパチーの遺伝子治療の可能性〈2023/7/4掲載〉)、今回は、統合失調症と並んで精神疾患のメジャーな疾患である不安症・鬱病のゲノム編集の可能性について御報告致します。現在、不安症・鬱病に対する治療に対しては、主として、選択的セロトニン再取り込み阻害剤(SSRI)*2(図1)が用いられます。しかし、SSRIは、多くのセロトニン受容体*3シグナル伝達経路に影響を及ぼすことから、副作用を伴いやすくなり、また、その効果を持続するためには、毎日服用する必要があります。従って、ゲノム編集を用いた新しい治療法の開発が期待されています。このような背景で、米国のCognigenics inc.*4を中心とする研究チームは、不安症と鬱病に重要な役割を果たすことが知られているセロトニン受容体のひとつである5HT-2Aを選択的にノックダウンするゲノム編集により、不安症が改善されることをマウスの実験系において示しました。その論文(文献1)がPNAS Nexus.に掲載されましたのでこれについて紹介致します。


文献1.
Rohn, T. T., et al. Genetic modulation of the HTR2A gene reduces anxiety-related behavior in mice. PNAS Nexus. (2023) Volume 2, Issue 6, June 2023, pgad170


【背景・目的】

現在、不安症・鬱病に対する主な治療は、SSRIの服用であるが、SSRIは、多くのセロトニン受容体シグナル伝達経路(少なくとも13種類)に影響を及ぼし、副作用を伴う。従って、本研究の目的は、不安症・鬱病に対するCRISPRシステムを用いた治療の可能性を検討することであった。

【方法】

  • 不安症と鬱病の原因となるHTR2A遺伝子を標的とするCRISPR/Cas9遺伝子編集システム;CRISPR-Cas9、及び、guide RNAのアデノ随伴ウイルスベクター9 (AAV9)を、マウスにおいて、経鼻投与*5によって血液脳関門を迂回し、脳にデリバリーする。guide RNAは、HTR2A遺伝子のmRNAに配列特異的に結合し、Cas9を誘導してHTR2A遺伝子を分解する。
  • 本研究に用いたCRISPR/Cas9遺伝子編集システムが作動することは、マウスの初代培養皮質ニューロンをもちいて、マルチ電極アレイ(MEA)*6解析の結果、濃度依存的に自発性神経電気活動が低下することを確認した。
  • 経鼻投与から5週間後、75匹のマウスに対し、標準的な行動解析を行ない、マウスの不安の程度を評価した。

【結果】

  • マウスの初代培養皮質ニューロンをもちいたIn vitro実験において、マルチ電極アレイ解析の結果、濃度依存的に自発性神経電気活動が低下することを確認した。
  • In vivo実験では、マウスの経鼻投与後5週目に採取した脳サンプルにおいて、1塩基対の欠失とナンセンス変異を見出し、mRNA発現が8.46倍減少し、それに伴って5HT-2A受容体の染色性が68%減少することを確認した。
  • また、AAV-CRISPR-Cas9を投与したマウスでは不安様行動が有意に減少することも確認した。例えば、不安なマウスは暗い場所で過ごす時間が増え、大理石などの見慣れない物体は、そのままにしないで、おかくずの中に埋める傾向にある。ゲノム編集の治療を受けたマウスは、コントロールに比べて、明るい場所で過ごす時間が35.7%長く、おかくずの中に埋められた大理石の数は、14.8%少なかった。
  • また、免疫組織科学の定量化の結果、ゲノム編集の治療を受けたマウスは、コントロールに比べて、HTR2Aの発現が8.47倍減少していた。

【結論】

本研究は、CRISPR/Cas9遺伝子編集システムを経鼻投与によって血液脳関門を迂回し、中枢神経系を非侵襲的に制御したデリバリー・プラットフォームの最初の成功例である。また、本研究の結果は、不安、鬱病、注意欠陥、認知機能障害を含む広範な神経疾患に対する革新的な治療戦略を開発するプラットフォームを提供する。

用語の解説

*1.CRISPR-Cas9
CRISPR-Cas9システムは、DNA二本鎖を切断してゲノム配列の任意の場所を削除、置換、挿入することができる新しい遺伝子改変技術である。現在、ヒトやマウスといった哺乳類細胞ばかりではなく、細菌、寄生生物、ゼブラフィッシュ、などの膨大な種類の細胞や生物種において、そのゲノム編集または修正に急速に利用されている。
*2.選択的セロトニン再取り込み阻害剤(selective serotonin reuptake inhibitors: SSRI)
脳内の神経伝達を改善し、意欲を高め、憂鬱な気分などを改善する薬。鬱病では脳内のセロトニンなどの神経伝達物質の働きが不調となり、意欲の低下、不安などの症状があらわれる。シナプス前終末から遊離(放出)された神経伝達物質は、自身の受容体へ作用(結合)することで情報が伝達されるが、遊離された神経伝達物質の一部はシナプス前終末へ回収(再取り込み)される。本剤は脳内でセロトニンの再取り込みを阻害しセロトニンの働きを増強することで抗うつ作用などをあらわす。
*3.セロトニン受容体
セロトニン受容体の分類と命名法は、セロトニン受容体の分類と命名法のためにIUPHAR(国際薬理学連合)分科会が制定した基準に従って、体系化されている。構造、伝達および作動上の特徴に基づいて、はっきりと異なる13種類のセロトニン受容体ヒトサブタイプが認められており、このような受容体サブタイプは、構造によって7つ(5-HT1 ~5-HT7)に分類されている。過去50年間、セロトニン受容体を直接的または間接的に標的にした薬剤が重要なカテゴリーの治療薬として登場し、さまざまな臨床症状の治療に使用されてきた。これらの薬剤で主要なものが、うつ病やさまざまな不安障害の治療に広く使用されているSSRIである。
*4.Cognigenics inc.
CRISPR技術をベースとするゲノム工学によるメンタルヘルスの向上を目指している米国のベンチャー企業。
*5.経鼻投与
経鼻投与された薬物は,血液脳関門を迂回することができ、主に嗅覚および三叉神経経路に沿った輸送を介してさまざまな脳領域に分布する。そのため、鼻腔内経路は中枢神経疾患に対する治療薬を脳に直接送達できる非侵襲的で簡便な投与経路として注目されている。
*6.マルチ電極アレイ(multielectrode array: MEA)
電極とは、生体が発生する電気信号を計測する実験器具のこと。神経細胞の活動を計測するためには、電極の先端を10μ程度と細胞と同程度の大きさにした微小電極が用いられる。神経細胞集団の活動を多点同時計測できるように、複数の微小電極を並べた実験器具が微小電極アレイ、又は、マルチ電極アレイという。

今回の論文のポイント

  • 本研究は、CRISPR/Cas9遺伝子編集システムを経鼻投与によって血液脳関門を迂回し、中枢神経系を非侵襲的に制御したデリバリー・プラットフォームの最初の成功例であり、まだ、マウスの段階ですが、近い将来、ヒトの脳疾患の治療に適用できると予想されます。
  • 鬱症状は、パーキンソン病の非運動症状のうち、最も頻度の高いものとして知られています。鬱病とパーキンソン病の鬱症状は同じメカニズムで引き起こされるかどうかに関しては、異論があり、完全に一致していませんが、何らかの手掛かりになるかもしれません。

文献1
Rohn, T. T., et al. Genetic modulation of the HTR2A gene reduces anxiety-related behavior in mice. PNAS Nexus. (2023) Volume 2, Issue 6, June 2023, pgad170