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2024/5/29

新型コロナ感染症における認知・記憶障害に対する特異的治療

文責:橋本 款

今回の論文のポイント

  • 新型コロナウイルス(SAS-CoV-2)に感染すると、新型コロナ感染症(COVID-19)の急性期・回復期に認知・記憶障害が起きるが、そのメカニズムは不明である。
  • 我々は、COVID-19とアルツハイマー病(AD)のいずれの病態においても血管内皮細胞が障害されることから、血液脳関門(BBB)の役割に注目した。
  • 本プロジェクトでは、マウスをSAS-CoV-2に感染すると脳内血管内皮細胞のWnt/β-カテニンシグナル伝達経路*1が抑制されて、BBBの整合性が低下し、記憶障害が見られるようになるが、アデノ随伴ベクターを用いて、Wnt7aを投与することにより、これらの病理所見は改善した。
  • これらの結果は、Wnt/β-カテニンシグナル伝達経路をターゲットにした治療戦略が有効であることを示唆している。
図1.

前回、お伝えしましたように(新型コロナ感染症における認知・記憶の低下に関する大規模解析〈2024/5/23掲載〉)、新型コロナウイルス(SAS-CoV-2)に感染すると、急性期だけでなく、回復後の慢性期に認知機能の低下が高頻度で出現することが知られており、ブレインフォグ*2と呼ばれています。ブレインフォグは、新型コロナ感染症(COVID-19)だけでなく多くの疾患に見られ、そのメカニズムは、完全に理解されていません。したがって、ブレインフォグがADの危険因子であると結論づけることはできませんが、少なくとも、その可能性を認識し、その治療法を講じておく必要があるでしょう。ワクチンや抗ウィルス剤によるSAS-CoV-2感染の制御に加えて、先週、議論しましたように、免疫療法などによる抗アミロイド蛋白凝集や薬剤を用いた抗炎症作用の増加は重要な治療戦略になると思われますが(図1)、他にもCOVID-19における認知・記憶障害のメカニズムに基づいた特異的な治療法があるかも知れません。このような状況で、米国・イリノイ大学のTroy N. Trevino博士らは、ADやCOVID-19の病態の一つに血管内皮細胞の障害があり、その結果、血液脳関門(BBB)の機能低下(早期アルツハイマー病態における血管内皮細胞の重要性〈2024/4/10掲載〉)が、認知・記憶障害のメカニズムに関係していると考え(図1)、低下したシグナル経路を刺激することでBBBの機能を回復させ、認知障害が改善されることをマウスの実験系で示しました。結果は、Brain誌に報告されましたので(文献1)、今回は、この論文を取り上げます。正常マウスで得られたこれらの結果が、ADマウスではどうなるのか興味深いとともに、ヒトのCOVID-19に伴う認知機能障害・ADの予防治療に応用できることが期待されます。


文献1.
Engineered Wnt7a ligands rescue blood– brain barrier and cognitive deficits in a COVID-19 mouse model, Troy N. Trevino et al., Brain 2024: 147; 1636-1643


【背景・目的】

SARS-CoV-2による呼吸器感染症は全身性の炎症反応と認知障害の原因になることが知られている。本研究の目的は、SARS-CoV-2の軽度の呼吸器感染後に脳血管障害と脳炎を引き起こすメカニズムを明らかにすることである。

【方法・結果】

  • この目的のため、免疫システムが正常に機能している老齢のC57Bl/6マウスにおいて、SARS-CoV-2-MA10 株を感染させることにより、脳内皮細胞において調節不全となるシグナル伝達経路を同定するため、RNAシークエンス、Gene Ontogeny解析*3を組み合わせて客観的な転写分析を行った。その結果、Wnt/β-カテニン経路*1が有意に抑制されていることがわかった。Wnt/β-カテニン経路は、BBBの整合性を制御することに必須であることが知られている。
  • この結果に基づけば、脳内皮細胞のWnt/β-カテニン経路の活性を高めれば、急性期におけるBBBの透過性、神経炎症、神経学的兆候を保護できるのでは無いかと考えられた。実際、マウスの脳血管にアデノ随伴ウイルスベクターを用いてWnt7aを発現することにより、SARS-CoV-2感染の急性期において、BBBの整合性を保護し、T細胞の脳実質への浸潤を減少させ、ミクログリアの活性を低下させることができた。重要なことには、SARS-CoV-2によって評価の下がった、記憶・学習の評価のための新規オブジェクト認識テスト*4や動作緩慢の評価をするポール降下タスク*5がWnt7aの投与により改善したことであった。

【結論】

本研究の結果により、Wnt/β-カテニン経路のシグナル、あるいは、下流のエフェクターの活性を高めることがウイルス感染に続いて起きる認知機能の低下を回復させることが介在治療の戦略になる可能性が考えられた。

用語の解説

*1.Wnt/β-カテニン経路 (Wnt/β-catenin signaling)
Wnt/β-カテニン経路はよく保存された経路で、幹細胞の多能性と発生過程における細胞運命の決定を制御します。この発生カスケードは、様々な細胞や組織において、レチノイン酸、FGF、TGF-β、BMPなどの他の経路に由来するシグナルを統合する。Wnt が受容体に結合すると β-カテニン経路、平面内細胞極性経路、Ca2+経路の3種類の細胞内シグナル伝達経路が活性化される。β-カテニン経路は β-カテニンの細胞内レベルを調節することにより遺伝子発現を介して細胞増殖や分化を制御し、平面内細胞極性経路と Ca2+経路は細胞運動や極性決定に関与する。
*2.ブレインフォグ
COVID-19治癒後の認知後遺症;“脳の霧”〈2022/3/1掲載〉)参照。
*3.Gene Ontogeny解析(GO解析)
GO解析(Gene Ontologyエンリッチメント解析)とは、ある遺伝子のリストにおいて、遺伝子全体と比較して有意に多く観測される遺伝子機能を抽出する解析手法である。RNAシークエンス解析において、発現が変動した遺伝子群を抽出した際に、その遺伝子群がどのような機能に関与しているのかを解釈するためによく実施される。
*4.新規オブジェクト認識テスト(Novel object recognition test)
新規オブジェクト認識テストは、認識メモリのための高度に検証されたテストである。それは、記憶増強化合物の有効性、ある種の他の化合物の記憶への(ネガティブ)効果、遺伝学または年齢の記憶への影響などを試験するために使用することができる:ラットやマウスは2つ以上のオブジェクトにさらされ、これらをしばらく探索する。次に、オブジェクトの1つが別の新奇オブジェクトに置き換えられる。記憶が正常に機能している場合、ラットまたはマウスは、この新奇オブジェクトを探索する方が、馴染みのあるオブジェクトを探索するよりも多くの時間を費やす。すべてのオブジェクトの探索時間が同じであれば、これは記憶不足と解釈することができる。
*5.ポール降下タスク(Pole descent task)
ポールテストは寡動(bradykinesia)をマウスを用いて定量的に観察できる方法で、垂直に立ったポールの先端に動物をつかまらせ、動物が先端から地面まで降りるまでの時間を測定する。ポールを滑った割合に応じてスコアを決める。1)症状の重症度、2)治療薬の開発のための治療効果の判定、3)パーキンソニズム発症の新しい要因・物質の発見、4)発症防止要因・物質の発見などに応用できる。

文献1
Engineered Wnt7a ligands rescue blood– brain barrier and cognitive deficits in a COVID-19 mouse model, Troy N. Trevino et al., Brain 2024: 147; 1636-1643