開催報告

第42回 サイエンスカフェ in 上北沢(2023年3月4日 開催)
心って、どこまで脳なのかな?


副所長 糸川 昌成

第42回サイエンスカフェ バナー

明恵(みょうえ)上人(しょうにん)の心

明恵上人樹上座禅像(部分)高山寺所蔵
明恵上人樹上座禅像(部分) 高山寺所蔵

心に脳が深くかかわること。それは、現代人にとって当たり前すぎることではないでしょうか。たとえば、脳トレで認知症を予防する。サーモンはオメガ3脂肪酸が精神を安定させるブレインフードだとか。心は脳次第といった情報が、マスメディアにはあふれているではありませんか。実は、こんなふうに心が頭蓋骨の内側だけにあるとイメージするようになったのは、ごく最近―せいぜい150年前―のことなのです。それ以前の心は、他人へ自由に出入りもしたし、物にも宿りました。たとえば、天竺(インド)修行をめざした鎌倉時代初期の名僧に、明恵上人がいます。(けん)(にん)3年(1203年)1月26日、伯父の湯浅宗光の妻に春日明神が乗り移り天竺行きに反対した様子が、紀州の伽藍建立に際して明恵が著した『秘密勧進帳』の中で述べられています1)。明恵の弟子、義林房喜海(ぎりんぼうきかい)の記した『明恵上人神現伝記』によれば同年2月、明恵は春日大社を参詣したとき、中御門付近で鹿が 30頭ほど膝を屈してひれ伏す不思議な光景と出会いました。参詣を終えた明恵が紀州に帰ると伯母に春日明神が再び憑依し、鹿たちがひれ伏していたのは春日明神が明恵を出迎えていたからだと述べたそうです。その後、同年11月19日に旅先で泊まった宿の主人の夢にまで、春日明神が現れました(夢記(ゆめのき):高山寺所蔵)。明恵自身の夢にも春日明神がたびたび現れるようになり、渡天竺をくじで占えば「渡るべからず」と出て、しかもくじの結果が前の晩に見た夢の通りだったと『高山寺明恵上人行状』に喜海が記しています。春日明神の大反対に折れた明恵は、1203年ついに渡天竺をあきらめました。奇しくもこの年はイスラム教徒がインドを席巻し、仏教教学の中心だったヴィクラマシラー寺院を破壊しインドの仏教が絶えた年だったのです1)。明恵上人の記録を見ていると、当時の人の心が人から人へと自由に出入りできるものだったことが分かります。明恵の伯母と旅先の宿主、そして明恵の心は、春日明神によって容易につながれているではありませんか。

贈与の心

貨幣経済が発達する前の人間社会では、贈り物が共同体の重要な儀礼であり人間関係の重要な局面を動かしました2)。たとえば北米の先住民族には、ポトラッチと呼ばれる大量の贈り物を交わし合う贈与の祭りがいまでも残っています。古代社会では贈り物が人と人の間を移動するとき、モノに込められた意味や感情がモノを媒介して相手に伝わりました。マオリの原住民たちは「ハウ」と呼ばれる生命的な力が、贈与によってモノと一緒に移動して社会をまとめる重要な機能を担うと言います。このように、贈与を中心に組織化された社会では、どんなモノにも所有者の人格の一部が付着していました。貨幣経済の発明によって商品というモノを誕生させるためには、市場がまず聖地の近くに作られました。なぜなら、神仏の支配する空間でモノは結びついた人格を削り取られ、いったん神仏の所有物となるからです。人格性をはぎ取られたモノは、貨幣価値に換算可能な商品として―贈与から交換へと―変貌を遂げることができました。ちなみに、信長が行った楽市楽座は市場を寺社の管理から開放する政策でしたが、市場でとられた税が莫大な富として神社や寺に集中するのを防ぐのが目的でした2)

モノに人格的な何かが宿るという古代人の感覚は、実は現代人にもひそかに生き残っています。たとえば、家庭ではお父さんのお茶碗、お母さんのお箸とか、職場では係長と新人さんの湯吞茶碗のように、個人ごとに専用の食器を分ける習慣はそのひとつです。昭和の時代、駅弁を食べたあと使った割りばしを折ってから捨てる人がいたのは、使っているうちに箸に乗り移った人格的な何かを他人に悪用されないためでした3)

共時性とたましい

奈良大学の精神科医、新宮一成はある女性患者を治療中に経験した不思議なできごとを精神医学専門誌に発表しました4)。その患者の治療期間中に出席した学会の懇親会で、新宮はマグロを食べに寿司のブースを訪ねたところ既に食べ尽くされた後でした。翌日、患者のところにいくと、彼女は昨夜の夢でマグロのお寿司をお腹いっぱい食べたといいます。こうした意味ある偶然のことを共時性といい、臨床心理の現場ではしばしば経験されることです。

現代科学では脳こそが心を生み出すのだという研究成果に満ちています。だからこそ、脳をもたないイチョウの木や石灯籠に心はないと確信できるのです。いっぽうでペットに喜怒哀楽を感じるのは、イヌやネコにも小さな脳があるから不自然なこととは思いません。

ところが、尊厳という蛋白質は脳のどこを探しても見つからないのです。自尊心という化学反応も発見できていません。なぜなら、尊厳とは目の前の人をかけがえのない相手として大切に接した時、接した自分と接してもらった相手との間に生じる共鳴現象のようなものだからです(古茶大樹先生の私信より)。丹精込める、心を寄せる、気持ちを汲むといった心を、脳だけの働きで説明することは困難なのです。

どうやら、心には脳の部分と脳以外の部分がありそうなことが分かります。たとえば、脳以外の心には尊厳のような人間同士の共鳴現象や共時性もある。明恵上人のように伯母や旅先の宿主を行き来する心もある。贈り物やお箸に宿り、新宮医師と患者の夢を行き来するものもある。故人の思いを感じること、以心伝心、虫の知らせ。おそらく、こうした自由に行き交い宿る心のことを、かつてはたましいと呼んでいたはずでした。心はどこまで脳なのだろうか。サイエンスカフェでは、こんなお話しの一部を御紹介いたしました。

文献

  • 河合隼雄 明恵 夢を生きる 講談社α文庫 1995
  • 中沢新一 愛と経済のロゴス 講談社選書メチエ 2003
  • 高取正男 高取正男著作集〈3〉民俗のこころ 法蔵館 1983
  • 新宮一成 それはなぜラカンによらなければ説明できないのか?―神経症と精神病―臨床精神医学 45:1383-1389, 2016