ゲノム動態プロジェクトリーダー 笹沼 博之
2024 年度より当プロジェクトのリーダーを務めることになりました笹沼博之と申します。ゲノム動態プロジェクトは、東京都臨床医学総合研究所(臨床研)で矢原一郎先生と瀬原淳子先生が率いた細胞生物学研究部を前身としています。2001 年に正井久雄先生が細胞生物学研究部を引き継ぎ、2004 年にゲノム動態プロジェクトに改名されました。細胞生物学研究部の発足当初より、ゲノム DNA の基本的な作動原理を解明するための先駆的な研究が行われてきました。この度、ゲノム動態研究室の新プロジェクトリーダーに就任するにあたり、歴代の先生方の偉大な業績に深く敬意を表しつつ、ゲノム研究の系譜を継承し、さらなる飛躍を目指してまいります。どうぞよろしくお願いいたします。
私は大阪大学を卒業後、埼玉大学大学院で博士号(理学)を取得しました。その後、東京大学、大阪大学で博士研究員を経て、京都大学医学研究科で約 10 年間、助教と准教授として研究に従事しました。現在に至るまで一貫して DNA 複製・修復を研究しており、出芽酵母を用いた遺伝学と生化学的研究から始まり、ニワトリ細胞、ヒト細胞、マウスを対象とした研究を行ってきました。2012 年に CRISPR/Cas9 技術の論文を読んだ日に研究対象をヒト細胞に移行する決意をし、その日以降、たくさんの DNA修復欠損のヒト変異細胞を作って、遺伝学的アプローチでDNA 修復メカニズムを解明してきました。マウス研究では DNA 損傷修復変異マウスを使い、京都大学附属病院の泌尿器科や乳腺外科の先生と共同研究を実施してまいりました。特に、京都大学附属病院乳腺外科教授でおられた戸井雅和先生(現・東京都駒込病院長)とは、研究討議を通して、乳がんの基礎から勉強をさせていただきました。大変感謝をしております。
30 億塩基からなるヒトゲノムは、外的・内的要因によって損傷を受けています。その多くは、正しく修復されます。しかし、損傷の一部は正しく修復されずに、塩基の置換が起こります。置換された多くの塩基は、タンパク質機能に影響を与えることはありませんが、まれにタンパク質の機能を変えるような塩基置換がおこり、変異として細胞形質に影響を与えます。中には、その変異により増殖を止めることができなくなった細胞も出現します。「増殖を止めることができなくなった細胞」こそが、がんです。がんの共通形質の一つとして、染色体不安定性があります。私たちの研究室では、染色体不安定性形質の獲得から発がんに至るまでのメカニズム解明を目指しています。
2000 年に Cell 誌にがんのホールマークというレビュー*1 が発表され、がんの6つの特性が定義されました。その時に定義された6つの特性とは、「持続的な細胞増殖」「増殖抑制回避」「細胞死回避」「組織浸潤と移転の活性化」「無限増殖能」「血管新生の誘導」です。2011 年の Cell 誌に発表されたレビュー*2 では、上述の6つの特性に加えて新たに二つのホールマーク「細胞エネルギー代謝のリプログラミング」と「免疫逃避」が追加されました。さらに、これらの8つに加え、レビュー記事には、発がん促進への重要因子として2つ「染色体不安定性」と「炎症の亢進」が記載されています。この2つの因子は、発がんにおいては最初に定義された8つの特性を促進する役割があります。「染色体不安定性」が増した細胞は正常細胞に比べて変異を獲得しやすく、結果として8つの特性を持つ細胞の出現を促進します。
正常細胞は、DNA 損傷に応答して強制的に細胞増殖を停止させ、状況に応じて細胞死を選択することができます。その目的のために、正常細胞には幾重にも防御機構が働いています。最も重要な防御機構の一つは、TP53 遺伝子です。がん種によっては、80% 以上の患者で TP53 に変異がみつかります。この TP53 遺伝子は、細胞の運命決定(増殖か細胞死か)に関わり、組織全体としての染色体の安定維持に重要な役割を果たします。TP53 遺伝子のほかにも、 DNA 損傷を検出し修復機構を活性化する因子(センサー因子)や実際に修復を行う因子(エフェクター因子)が防御機構として機能しています。例えば、センサー因子の変異は、DNA 損傷が存在しても細胞増殖停止や損傷部位への修復酵素の動員がなされず、その結果として、発がんのリスクが上昇します。また DNA 損傷を修復する酵素(エフェクター因子)の変異は、損傷部位の修復ができずに変異発生、やはり発がんリスク上昇を招きます。また変異によって間違った塩基を取り込みやすくなった DNA 合成酵素(DNA polymerase)は、DNA の複製を経ることで塩基置換量と変異量の増加、結果として、発がんのリスクが高くなります。細胞分裂時の染色体分配装置の異常は、異数性を発生させ染色体の量に問題が生じます。本来、細胞にはゲノム情報を安定維持するためにとても堅牢なシステムが備わっており、その結果、ゲノムの完全性が担保されています。発がんとは、染色体不安定性の発生を抑制するための幾重にも存在する防御システムの多段階的な破綻の結果を示していると言えます。
上述した通り、染色体不安定性とは、染色体の数や構造に異常が生じやすくなった細胞の状態を示しています。染色体不安定性を持ったがん細胞は、たくさんのゲノム構造異常や塩基置換が蓄積し、その一部が変異としてタンパク質の機能に影響を与えています。近年のがんゲノム解析の結果、それぞれのがん種でどのような変異が濃縮しているのかが明らかになっています。これらの情報は、すでに臨床現場において治療法選択や予後予測に役に立っています。また特定のがんに濃縮した特徴的な遺伝子変異を分子生物学的に解析することも始まっており、その解析はその遺伝子がその組織 / 臓器にどのような役割を果たしているかを知ることにつながっています。
私たちは、乳がんに注目して研究をおこなっています。乳がんと診断される患者さんのうち約 10%は遺伝性であり、若年発症を特徴としています。遺伝性乳がんのうち、約半数に BRCA1 もしくは BRCA2 に変異が見られます。 BRCA1 や BRCA2 は、DNA 損傷修復に極めて重要な役割を果たしており、その変異は染色体不安定性を増大させます。非常に不思議なことに、BRCA1/2 変異によって引き起こされる染色体不安定性は、乳がんや卵巣がんを強く引き起こします。この謎はまだ解けていません。 BRCA1 や BRCA2 変異が、なぜ臓器選択的発がんを引き起こすのかは、私たちの研究テーマの一つになっています。私たちの研究グループは、女性ホルモンであるエストロゲンには DNA 毒性(DNA 損傷を発生させる)があることを発見し、エストロゲンによる DNA 損傷の修復に BRCA 遺伝子が重要な役割を果たしていることを発表してきました。エストロゲンによる DNA 損傷やその修復にはまだまだ不明な点が多いですが、そのメカニズムの解明は、家族性乳がん卵巣がん症候群の発症機序解明に寄与すると考えております。
私たちの研究チームは、がん細胞で見られるゲノム動態の異常がゲノム機能にもたらす影響などに着目して、がん研究に邁進していく所存です。また、東京都立病院との連携を強化し、臨床検体を使った解析をより推し進め、深化した疾患理解を目指したいと思っております。現在、私たちのグループは、最新の遺伝子編集技術や高解像度の顕微鏡観察、単細胞解析や空間トランスクリプトームなどの次世代シーケンシング先端技術を駆使し、細胞レベルから分子レベルまでの詳細な解析を行っていきます。今後も、これまでの研究成果を基に、新たな知見を積み重ね、DNA複製・修復制御破綻による疾患発症のメカニズムへの理解、また新たな治療法や診断法の開発へと発展させようと考えております。どうか、今後ともご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。