特集記事

閉鎖系の役割意識
~新型コロナウイルス感染対策に対する都知事からの感謝状贈呈によせて~


Itokawa photo

副所長 糸川 昌成

日本の自然美

プロイセンのオイレンブルク使節団に随行した画家ベルクや、後に明治政府のお雇い外国人となるフランス軍人ブスケなど、幕末に訪れた欧米人はひとしく日本の自然美に感嘆した1)(図1)。江戸は当時の世界最大規模100万の人口を抱えながら「田園を取り囲んだ都市」と賞賛された。緑が豊富であり、水晶を溶かしたような清流を満たした墨田川では白魚や手長海老が獲れたのだ。日本の国土は8割を固い岩の山岳地帯が占め、耕作地はわずか2割の堆積地に限定される。ペリーが開国を迫ったときのアメリカの人口は約2,300万人だったが、アメリカの30分の1の国土しかない日本には3,300万もの人が暮らしていた。

開放系と閉鎖系

なぜ、これほど狭い土地に人口が密集しながら、美しい自然環境が維持できたのだろうか。元国立環境研究所長の大井玄は、倫理意識を閉鎖系と開放系に分類することでこれを説明した2)。15世紀以降、アメリカ、アジア、オーストラリア、アフリカにおいて植民地を拡大させた欧米有力国の世界観を、大井は「開放系」と名付けた。開放系の世界では利潤の追求、移動の自由そして競争が生存原理となり倫理意識として実感される。たとえ、勝者がすべてを獲ったとしても(ウィナーズ・テイク・オール)敗者は転進する自由と豊かさがあったからだ。

図1 ペリー提督と遠征隊士官、兵士の上陸の様子
図1 ペリー提督と遠征隊士官、兵士の上陸の様子
(下田上陸の石版画~ TOPPAN ホールディングス株式会社 印刷博物館所蔵)

役割を果たす倫理意識

アメリカの進化生物学者ジャレド・ダイアモンドは、イースター島の森林消滅と社会崩壊、マヤ帝国の衰亡、グリーンランド移民の絶滅を分析した。その結果、これら環境適応失敗の要因として長期の戦乱、富の分極化と無制限な物質的豪華さへの欲望、森林破壊などをあげている。大井は、国土の2割しか耕作地にならない島国日本を閉鎖系環境とした。そして、ダイアモンドを引用しながら閉鎖系では闘争の回避と勤勉、過大な欲望の制御が倫理意識として内面化されたと述べた。こうした倫理意識は自己実現を、自分の欲望を具現化するのではなく、他者から期待された役割をきちんと果たすこと、それにより共同体の目的に奉仕することで満たされるとした。たとえば、秀吉の天下統一とそれに続く徳川統治による平和到来は、急激な人口増加と都市の再興など木材消費増大により森林崩壊の危機を招いた。幕府の強力な森林政策により、各藩には世襲による御山守が配置され、代々の御山守が役割を果たすことで計画的な植林と伐採を実現し森林環境を巧みに保全した。勤勉と役割を果たす相互協調を前提にした閉鎖系の倫理意識があったからこそ、環境資源を使いつぶすことなく美しい自然が守られたのだ。

都医学研の源流

東京大学の神経病理学者、白木博次は美濃部亮吉都知事(当時)から 1967年、府中療育センター院長就任の依頼に際して「弱い患者のためなら、どのようなことでも努力する」と言われた美濃部の言葉に共感したと述べている3)。院長を引き受ける条件として、併設して心身障害の病態と発生予防に関する研究所の設立をあげ、これにより東京都神経科学総合研究所を誕生させた。白木は自著で次のように述べている4)。「医療は投資されたものによって、病気が早く発見され早く治療され社会復帰できるという経済効果(黒字)がある。社会復帰できない難病は、社会の連帯責任によってこれを守っていくということが大きな黒字である*)。」白木は院長就任後も、都参与として次々と研究所の設立に関わった。精神病も原因不明であり、日本の精神医学を牽引して100年以上の歴史をもつ都立松沢病院に併設して東京都精神医学総合研究所を作った。東京都中期計画で都立駒込病院を再整備するなか、都立病院群の医療水準を高く維持するための科学的役割として東京都臨床医学総合研究所を誕生させた。この3つの研究所が 2011 年に統合され、現在の都医学研となったのである。都医学研の源流を遡ると、白木のヒューマニズムへたどり着くのだ。

白木博次の役割

白木は、全国スモンの会が裁判準備金を必要とした時に、保証人を引き受けたことがある。ワクチン禍訴訟大阪弁護団から家族の窮状を聞いて原告・患者側に立って裁判を闘ったこともある。こうした弱者の救済に献身する自身の原動力について、「青春時代の死に損ないの体験が無縁でない」と白木は述べている3)

白木は東大医学部在学中に腸チフスに罹患し、腸穿孔を起こして瀕死の状態に陥った。腸穿孔の治療は開腹手術しか方法はなかったが、手術者がチフスに感染することを恐れ外科の大槻菊夫東大教授が手術をためらった。大槻教授の旧制高校の先輩で東大医学部教授だった白木の父親の強い依頼があり、大槻教授は手術に踏み切り白木は九死に一生を得た。この彼の家庭環境(父親)が、当時の庶民ではかなえられない最高水準の医療環境を作ったのである。たまたま白木家に生まれたおかげで生かされた命。白木がそう考え、自らの役割を難病の解明や弱者の救済に生涯をささげることと感じたとしても不思議ではない。

感謝状

2023年5月、新型コロナウイルス感染症モニタリング会議で報告・助言を行った専門家に、小池都知事から感謝状が贈呈された。都医学研からは社会健康医学研究センターの西田淳志参事研究員と(図2)、感染制御プロジェクトの小原道法特別客員研究員(図3)に授与された。

西田研究員は、携帯電話の位置情報から主要繁華街に滞留するハイリスク人口を算出するシステムを開発した。このシステムにより、夜間滞留人口量が新規感染者数・実行再生産数を予測できることを証明した5)。西田研究員は、東京都新型コロナモニタリング会議に 2023年2月まで75回出席し、厚労省アドバイザリーボード会議に 2023年2月まで80回参加し、研究成果が東京都と国から新型コロナ対策の様々な施策において参照された。

小原研究員は、都内の医療関係者を対象に新型コロナウイルスワクチン接種後の抗体の推移を解析した(ワクチン2回目接種7ヵ月後 1,138人、ワクチン3回目接種4ヵ月後701人、ワクチン3回目接種7ヵ月後417人)。その結果、ワクチンは3回接種してはじめて十分な抗体価の上昇がみられ、2回目接種まではみられた高年齢における抗体低下も3回目接種により認められなくなった6)。この成果により、3回以上のワクチン接種の重要性が示された。

平時には科学者として切磋琢磨し、いったん有事になれば平時に培った科学力を有事対応に発揮する。白木博次が源流を敷いた都医学研で、二人は閉鎖系の継承者らしく役割を果たし共同体の目的に奉仕したのではないだろうか。

図2 小池知事から感謝状を贈呈される西田研究員
図2 小池知事から感謝状を贈呈される西田研究員
図3 小原研究員(左)と筆者
図3 小原研究員(左)と筆者

参考文献

  • 渡辺京二 逝きし世の面影 平凡社 2005
  • 大井玄 環境世界と自己の系譜 みすず書房 2009
  • 森山治 人文論究75:1-14, 2006
  • 白木博次 冒される日本人の脳 藤原書店 1998
  • Okada Y, Yamasaki S, Nishida A, Shibasaki R, Nishiura H. Night-time population consistently explains the transmission dynamics of coronavirus disease 2019 in three megacities in Japan. Front Public Health. 11:1163698. 2023
  • Sanada T, Honda T, Higa M, Yamaji K, Yasui F, Kohara M. Antibody response to third and fourth BNT162b2 mRNA booster vaccinations in healthcare workers in Tokyo, Japan. J Infect Chemother. 29(3):339-346. 2023

*文献4より筆者が一部改訂して引用。