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年頭所感


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所長 正井 久雄

明けましておめでとうございます。

2023年は、まだ油断できない可能性もあるとはいえ、新型コロナ感染者数に一喜一憂する日々が過去のものとなり、ようやく4年前の日常が戻った一年になりました。これまで中断していた学会や研究会が再開し、昨年は多くの研究者の方々が、対面の国内会議、国際会議に出席されたものと思います。私も長らく、この感覚を忘れていましたが、やはり、zoom での交流とは全く異なっており、直接の交流、質疑応答とディスカッション、リアルタイムでの反応とフィードバック、そしてそれがもたらす新たな共同研究やネットワーキングへの発展は、科学における新しい発見を生むためには必須であると同時に、とても楽しいものであると再認識しました。

一方、世界では、ロシア―ウクライナの戦争は2年近くたっても解決の糸口は見えず、昨年は、ガザにおけるイスラエルとパレスチナの戦争が始まり、幼い子供を含む民間人が毎日犠牲になっています。映像のみで戦争を見る私たちは、現実のものと思えず、別の世界で起こっていることのように思ってしまうかもしれません。しかし、紛れもなく、この地球上でreal time で起こっていることです。憎しみの連鎖が悲しみの連鎖を呼ぶ、この悪循環を早く断ち切り、世界の平和がもたらされることを、今年ほど祈ることはありません。

この一年の世界の科学を振り返る

2023年のノーベル生理学・医学賞の受賞者に新型コロナウイルスの mRNA ワクチン開発に貢献した米国ペンシルベニア大学のカタリン・カリコ博士とドリュー・ワイスマン博士が選ばれたのは記憶に新しいところです。従来の不活化ワクチンや、組換えタンパク質を用いた方法では、少なくとも数年から 10年かかると言われていたワクチン開発ですが、この常識を破り一年で新型コロナウイルスに対するワクチンが完成し実際に接種が開始されました。

mRNA ワクチンという技術を用いることにより、これが可能になったわけですが、この陰にはカリコ博士らの地道な研究の成果がありました。mRNA は自然免疫機構を介した強い免疫原性を持つため、投与により強い炎症反応を誘導するという問題がありました。カリコ博士らは、tRNA を導入しても炎症反応は起こらないことに着目しました。tRNA上の塩基は、種々の化学修飾を施されているので、この修飾が炎症反応の回避に重要ではないかと考え、導入する mRNA に同様の修飾の一つ(シュードウリジン)を加えて実験してみると、免疫原性が減少し炎症の誘導が抑制されました。これが mRNA医療の実用化の大きな基盤となりました。

このような地道な基礎的な研究成果がすでにあったために、喫緊の感染症問題に対して、直ちにその技術を応用できたことが一年でワクチンが開発できた大きな理由ではないかと思います。それと同時に、一見無理と思われるゴールも、目標設定したら、どのような困難も排除し必ず成し遂げるシステムを作り上げる、欧米の底力を感じました。日本では、そのようなゴールの設定をそもそもしないで、最初から諦めるのではないでしょうか。

アルツハイマー病の新抗体医薬「レカネマブ」(異常アミロイドβの除去)や、肥満症治療薬としての有効性が示された「GLP-1 受容体アゴニスト」も昨年は注目されましたが、広い科学の分野では AI が最も注目された一年でした。生命科学、医学にもAI は大きな影響を及ぼしています。

ProGen という Language Model が開発され、指定された機能を有するタンパク質の配列を予測・デザインできるようになりました 1)。患者の診断、診療においても、AI は、人間の医師より、質の高い、患者にとって有益な対応ができること 2)、また、患者の医療記録のみにより膵臓癌の危険度を正確に予測できることが報告されました 3)。さらに、AI はスーパーバグと呼ばれる多剤耐性 Acinetobacter baumannii に対して効果を示す抗生物質 abaucin を設計しました 4)。今後も対話型AI は、我々の日常の研究においてデータ解析のみならず文献探索と情報取得、仮説の生成と検証、遺伝子編集やタンパク質設計の支援、診断や治療法の開発など、多岐にわたり、研究の効率的な進展を支援することが期待されます。

研究所のこの一年

第4期プロジェクトも、4年目となり、研究所からは昨年も多くの研究成果が発表されました。中でも、学習記憶プロジェクトの宮下知之主席研究員と齊藤実副所長のグループは、グリア細胞による感覚情報の伝達と入力制御機構の発見をScience 誌に発表しました。この研究により、神経細胞が担うとされてきた感覚情報の伝達がグリア細胞によっても行われることが明らかになるとともに、記憶の種類に応じて記憶中枢の特定の神経細胞で記憶情報が形成される仕組みが明らかとなりました。さらにグリア細胞によるユニークな嫌悪情報の伝達機構が解明されることで、グリア細胞の関与が示唆される精神神経疾患の発症機構や治療の確立に役立つことが期待されます。

この他に、睡眠プロジェクト夏堀晃世主席研究員による「覚醒神経であるセロトニン神経が脳のエネルギー代謝調節機能を持つことを発見」(iScience)、基盤技術支援センターの平林哲也主席研究員による「肝臓の細胞膜から重要な栄養素コリンを取り出す仕組みの発見」(Cell Reports)、統合失調症プロジェクトの鳥海和也主席研究員らによる「グルクロン酸はペントシジンの新たな前駆物質であり、統合失調症に関連する」(Redox Biology)など興味深い報告がされました。

新たな病院連携研究も多く開始しており、また、3月にはTMED フォーラムも4年ぶりに対面で開催されることになりました。一昨年に発足した東京都立病院機構とともに、今後、臨床サンプルを用いたインパクトのある研究成果が発信されることを期待しています。

普及事業では都民講座を Hybrid 形式で 8回開催し、7月と12月には多くの子供たちと対面でサイエンスカフェも開催し、色々な色素や物質を抽出する実験を実際に行い楽しんでもらいました。一昨年から開始した、医学研セミナーシリーズ、「老化と健康」は昨年 8月に第一クールを終え、一般の方々も含め多くの方に視聴していただきました。10月から第二クールを開始し、多彩な講師の先生方に、高齢化社会をどのように健康に生きてゆくかについて、多くの側面から議論していただいております。アーカイブ配信もしておりますので、見逃した方はご覧ください。また、昨年、念願の所内 WiFi が設置されました。支援してくださった研究所の皆様、尽力してくださった事務方はじめ、関係者の皆様に感謝いたします。

2024年の研究所

所長に就任した時に、共有、シナジー、国際化をキーワードとして挙げました。共有、国際化は、進んできていると思いますが、今後、ますます研究所がシナジーを持って研究を推進できるようになってほしいと思います。当研究所の前身である 3つの研究所の創設経緯(都医学研ニュース 2023年10月、糸川副所長の記事)にあるように、神経系、精神系の難病、そして感染症やがんなどの疾患克服を目指し、病院に隣接する研究所を設立したことに端を発します。3つの異なる背景の医学研究を担っていた研究所が統合することにより、この研究所は他に類を見ないユニークな医学研究を行う可能性を持ちます。

2020年の年頭所感でも述べましたが、統合前に行われたプロジェクト研究検討ワーキンググループでは、新研究所のミッションとして

の3つを挙げました。これは、現在も研究所のミッションとして変わることはありませんが、バイオインフォマティクスやゲノミクス技術の発展、大量データ解析やパターン認識、画像解析・診断、創薬、個別医療の実現における AIの活用など、生命科学・医学研究の新時代を迎えて、革新的な医学研究を行うために、異なる研究背景の研究者が、力を合わせることが、これまでになく重要になっています。

私たちは、疾患に関する諸問題を遺伝子、生体分子、細胞・臓器・モデル生物を用いた解析から、臨床サンプルを用いた、疾患の診断、治療法の開発を目指す研究、そして臨床試験へと進めてゆきます。そして、さらに上の階層である社会・環境が健康・疾患に与える影響、そしてそのメカニズムの解明と予防や健康促進への応用を目指す研究を推進します。このように、分子・細胞から、ヒト、社会にいたる多層的・総合的な医学研究を行い、その成果の社会還元を目指すために、研究所は一致団結して、シナジーを生む研究を進めることが必須であります。研究所全体が一丸となり、全ての研究者が研究に没頭し、互いに相手を尊重しながら自由に意見を交わし、探究心にあふれる環境の中で日々を送ることのできる研究所にしたいと思います。

夢のある一年へ

この原稿を書いているときに、大谷選手が 10年総額 7億ドル(約 1015億円)でドジャースと契約したというビッグニュースが飛び込んできました。

想像もつかない額ですが、野球ファンのみならず、日本人にとっては、とても嬉しい夢のある話です。もう随分前のように思うかもしれませんが、思い出してください。昨年の春は、 WBCで大いに盛り上がりました。野茂、松井、イチロー、そして大谷といった最高峰の選手たちがアメリカに渡り、『日本の野球は空洞化する』と一部の野球評論家は嘆きました。しかし実際は全く逆でした。世界で活躍する選手を目の当たりにすることにより、子供達は野球に憧れ、才能を持つ子供たちが野球選手を目指し、良い人材が集まることにつながり、ますます日本の野球界が繁栄するという良いサイクルが生まれました。

振り返って日本の科学研究は子供達に夢を与えているでしょうか?はやぶさ 1と 2が小惑星イトカワ及びリュウグウからサンプルを持って地球に帰還した時は、とても大きな夢を与えました。その後に行われた宇宙飛行士の応募の倍率は2000倍を超えたということです。しかし科学研究全般では、夢がなくなりつつあるように思います。コロナ禍は特に子供や学生に、先生が直接夢を語る機会を奪いました。また、期限付きのポジションに追われる先輩を目の当たりにして、学生が研究者を目指すことに希望を持てないことも理解できます。学生だけでなく、研究者も夢を持って研究することが重要です。夢は大きく設定して、本研究所から、医学の常識を破るような発見が生まれることを期待します。

2024年の干支は「甲辰(きのえたつ)」

2024年の十二支は辰、十二支の中で唯一実在しない空想上の動物、竜(龍)です。辰は「振るう」という文字に由来しており、自然万物が振動し、草木が成長して活力が旺盛になる状態を表します。十干の甲は、甲冑(かっちゅう)の「甲」の文字から鎧や兜を連想させ、種子が厚い皮に守られて芽を出さない状態や、物事に対して耐え忍ぶ状態を表す文字です。

「陰陽五行思想」では、甲 ( きのえ ) は「木の陽」を意味します。辰も「木の陽」に分類されます。したがって、「甲辰」は木に陽が注ぎ、急速に成長することを表します。以上から、2024年は「春の日差しが、あまねく成長を助く年」、春の暖かい日差しが大地すべてのものに平等に降り注ぎ、急速な成長と変化を誘う年になることが期待されます。

2024 年は、大きな出来事が起こる、時代が動く年となるかもしれません。世界中の紛争が解決し、世界の平和が実現し、皆様一人ひとりにとって夢の叶う一年になることを祈念して私の年頭の挨拶とさせていただきます。

参考文献

  • 1) Nature Biotechnology (2023) 41(8):1-8 DOI:10.1038/s41587-022-01618-2
  • 2) JAMA Internal Medicine (2023) 183(5) DOI:10.1001/jamainternmed.2023.1838
  • 3) Nat Med (2023) 29:1113‒1122 DOI:10.1038/s41591-023-02332-5
  • 4) Nature Chemical Biology (2023) 19:1342‒1350. DOI:10.1038/s41589-023-01349-8

干支については下記のサイトを参考にしました。

  • https://www.quocard.com/column/article/eto2024/
  • https://www.homes.co.jp/cont/press/reform/reform_01322/