所長正井 久雄
あけましておめでとうございます。
2024年は元旦のお正月気分を吹き飛ばした能登半島における大地震から始まった激動の一年でした。地震に引き続き大雨の災害が能登を襲い、大変な苦難を経験され、そして一年たった今も、避難生活をされている多くの方々を思うと心が痛みます。
ロシア-ウクライナの戦争は丸 3年近くが経過し、さらに拡大の兆しを見せており、平和を願う市民には希望の光が見えてこない状況です。ガザにおけるイスラエルとパレスチナ武力闘争は、2年目に入り、ガザ地区では、4万人以上の死者、10万人に及ぶ負傷者が発生し、住民の9割が避難を余儀なくされています。子供達が、大怪我をして、深刻な食糧危機で痩せ細っている映像は、遠く離れている私たちの心も切り裂くものです。このような惨劇を1日も早く終了させるために私たちは何ができるのか、世界平和を願う地球人として真剣に一人一人が考える必要があります。
研究所においては、田中啓二理事長のご逝去という、大変悲しい出来事に直面しました。偉大な研究者であり、そして、研究所の大黒柱であった田中先生が、あまりに急に私たちの元を去ってしまいました。6か月近く経った今も、開くことのない先生のお部屋のドアを見るたびに涙が溢れます。分子病理・ヒストロジー解析室の河上緒副参事研究員も 3 月に逝去され、研究所にとっては、悲しい出来事が重なった一年となりました。
2024 年のノーベル生理学・医学賞は、遺伝子発現の制御に重要な役割を果たすマイクロ RNA の発見に授与されました。マイクロ RNA は、細胞の癌化や老化に関係するとともに、これを標的とした診断や治療法の開発も進んでいます。これらの RNA はいわゆるゲノムのジャンク(ガラクタ)と呼ばれていた非コード領域に存在します。非コード領域には、タンパク質をコードしないもっと長い RNAも多くコードされており、生命の高次機能にも関与することが次々に明らかになっています。このように、ジャンクと呼ばれていたゲノム領域が実はお宝の宝庫であることがわかってきました。マイクロ RNA の親戚は大腸菌やそれを宿主とするプラスミドに存在することがすでに 45 年くらい前に知られていました。私が修士・博士課程で研究していた薬剤耐性プラスミド R1 の複製起点領域は、CopAと名付けられた機能不明の短い anti-sense RNA をコードしており、その後の研究から CopA RNA は複製開始に必要なタンパク質の翻訳を制御することが明らかとなりました。また、誰もがクローニング・増産ベクターとして使用している pUC18 や pET ベクターの複製は RNAI というこれも短い anti-sense RNA により制御されており、遺伝研の元所長で米国科学アカデミーの会員でもあった富澤純一博士は、その重要性に着目し、1980 年代にそのメカニズムを解明されました。生命にとって最も重要な原理、メカニズムは生物の進化を通して必ず保存されていることを改めて明確に示した今回のマイクロ RNA の発見であると感じました。
また、ノーベル化学賞の受賞対象も私たちの研究に大変深く関連していました。タンパク質の構造の予測、新たな機能を有するタンパク質の設計の技術開発が対象となりました。アルファーフォールドによるタンパク質構造の正確な予測は、現在、研究者にとってルーチンな研究方法になっています。特にアルファーフォールド 3 が発表され、タンパク質複合体、核酸や脂質などの種々のリガンドとの複合体の形成も正確に予測できるようになり、生命科学研究に革命がもたらされました。
この他にも 2024 年には多くの新しい発見がありました。特に若返りを可能にする薬の開発に向けた研究が世界中で進展しています。老化細胞を除去するセノリシス、あるいは老化細胞を若返らせるリプロミングが代表的なアプローチです。老化を遅らせ、寿命を延ばす『抗老化』は、現実的なものとなってきたとして、財団や個人投資家が数百〜千億円の投資を行っています。しかし、人間の最大寿命は120 歳、おそらくこれをさらに伸ばすことは難しいでしょう。今一番求められるのは健康寿命をいかに伸ばすかということです。当研究所では2年に渡りセミナーシリーズ『老化と健康』を行い、老化研究を行う著名な研究者に講演をしていただきました。その講演をまとめると、結局、健康寿命を延伸するためには正しい食生活をし、質の良い睡眠をとり、適度な運動をする、という何十年も誰もが知っている望ましい生活習慣の三大原則に落ち着くということになりました。抗老化の薬は、健康寿命の延伸に役立つのかどうか、現在はまだ分かりませんが、10 年後には答えが出ているでしょう。
2024 年の研究所を振り返ってみましょう。研究所からの昨年の研究成果の一部を紹介します。「ユビキチンによる糖タンパク質の新たな修飾機構の発見」(Molecular Cell;吉田雪子室長、遠藤彬則主席研究員、田中啓二理事長)、「ほ乳類の概日時計の周期長を決定しているリン酸化修飾部位の発見」(Proceedings of the National Academy of Sciences;乙部優太研究員、吉種光リーダー)、「発生期大脳皮質で移動ニューロンは ADAMTS2 プロテアーゼを分泌して神経細胞移動を制御する」(EMBO reports;金子乃愛研修生、丸山千秋リーダー)、「視野内で注目すべき部分を予測し、素早い反応を支える脳の仕組みへの解明」( Communications Biology;横山修主任研究員、西村幸男リーダー)、「セロトニン神経の軸索分枝形成を調節するメカニズムを通じた、うつ・不安状態の誘発」(The Journal of Neuroscience;島田忠之主席研究員)、「C 型FTLD-TDP における ANXA11 と TDP-43 のヘテロ型アミロイド線維の構造」(Nature;長谷川成人リーダー、野中隆副参事研究員ら)、「思春期にヤングケアラーの状態が長く続くと精神的な不調を抱えやすくなる」( Journal of Adolescent Health;ダニエル・スタンヨン研究員、西田淳志センター長ら) 。このほかにも多くの成果が発表されており、詳しくは研究所 HP のトピックス欄をご覧いただければと思います。
普及事業では、都民講座を例年通りハイブリッド形式で8 回、サイエンスカフェを対面で 3 回開催し、DNA の抽出や香りに関するサイエンスを子供さんたちに体験してもらいました。4 - 5 月にかけては、日本科学未来館において Tokyo ふしぎ祭(サイ)エンス 2024 への出展、SusHi Tech Tokyo 2024 での講演を行い、都民の皆様に私たちの研究成果の一部を紹介いたしました。HP においては、昨年も 50 本以上の医学・生命科学全般に関する研究紹介記事を掲載するとともに、子ども向けのわかりやすい説明記事(けんた君の教えて!ざわこ先生)も掲載し、都民の皆様に広く私たちの研究成果を発信、普及することに努めました。
東京都医学総合研究所では、『都民の生命と健康を守るため、重要疾患の原因解明、予防法や治療法の開発等に総合的に取り組み、優れた研究成果を発信することにより、首都東京の保健・医療・福祉の向上に貢献する』という理念のもと「生命の仕組みの解明に挑む基礎研究」と「疾病に直結した実践的な医学研究」とを相互に連携させる研究を進め、インパクトの高い研究成果と早期の社会還元を目指して、第 4期プロジェクト研究(2020 年度から 5年間)を推進してきました。本年 4 月から開始する、第 5 期プロジェクト研究でも、基本的に同じ理念で研究を推進します。本研究所は、創造的な医学研究を行うために、優れた研究設備と研究支援のもと、まず個々の研究者のオリジナルなアイデアを尊重し、それを存分に伸ばす研究ができる環境を提供したいと考えています。さらに、研究所の特性を活かし、細胞レベルから、動物、個体、社会レベルまでの新時代の『総合的な』医学研究を進めていきます。そのためには、研究所内での自由闊達なコミュニケーションを促進し、融和的な雰囲気の中で、生産的な共同研究が進行するような環境を形成したいと思います。幸い、新型コロナウイルスもようやく過去のものとなり(とは言え、まだ感染は起こっていますので油断できません。私も昨年 7 月に初めて感染し、1 か月ほど辛い思いをし、普通の風邪とは違うことを再認識しました)、所内の種々の交流会も行える状況になりました。昨年、Orbitrap Exploris480 質量分析計を東京都の援助で導入させていただき、研究所内で高度な質量分析の研究支援を行うことができるようになりました。今後、創造的な医学研究に必要とされる、多様な研究技術支援システムをさらに充実させていきたいと考えています。また、研究所のメンバーの健康やウェルネスを促進する環境の提供など、心身の健康にも配慮した取り組みも考えたいと思います。
プロジェクトとは別に東京都の保健医療福祉施策に直接関連する取り組みをより長期的な視野でサポートするため、「ゲノム医学研究センター」及び「社会健康医学研究センター」を 2020 年に設置しました。新型コロナの蔓延を機に、予測できない有事に迅速に対応できるよう、感染症に対する平時からの研究体制の維持が必要であると考え、本年 4 月に「感染症医学研究センター」を新たに設置することにしました。この新研究センターでは、厚生科学審議会で選定された重点感染症を含む感染症の発症機序の解明、自然免疫機構に基づく抗ウイルス薬や汎用型のワクチンの開発に向けた研究などを行います。有事には、新センターと所内の社会健康医学研究センター、病院等連携支援センターなども含めて一丸となり、感染症に対応する体制を迅速に整えます。そして、東京都健康安全研究センターや東京 iCDC、都立病院などと密接に連携し、新興病原体の理解、感染メカニズムの解明、免疫応答の理解を目指した研究や疫学に関する研究など、研究所としてできることを最大限行う予定です。
本年(2025年・令和7年)は、十干の「乙(きのと)」と十二支の「巳(み)」が組み合わさった「乙巳(きのと・み)」です。「乙」は十干の2番目で、木の陰のエネルギーを表し、植物が成長し広がっていくような意味合いから、柔軟性や協調性を象徴し、周囲との調和を保ちながら自身の目標に向かって進んでいく力を表しています。十二支の 6番目の「巳」(蛇)は、たくましい生命力があり、脱皮をするたびに表面の傷が治癒していくことから、『復活と再生』のシンボルともされています。5期が開始する乙巳の 2025年は、新プロジェクトも迎え、新たな種の発芽と成長、同時に、4 期に育てた樹木から大きな実(巳)を収穫する年になることを期待します。
昨年から今年にかけて日米のリーダーも交代するなど、予測が難しい不確実な時代の中で、漠然とした不安感を覚えます。アインシュタインは “Peace cannot be kept by force. It can only be achieved by understanding. (平和は力では保たれない。平和はただ理解し合うことによってのみ達成される)” と言いました。残念ながら、昨年のこの文章で祈った世界の平和は実現しないどころか、ますます遠のいてしまいました。今年こそ、人々が話し合いを通じて理解し合い、平和が回復すること、そして皆さんにとって、実り多い、幸多い一年となることを祈念して、私の年頭のメッセージとさせていただきます。