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新年度挨拶


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理事長 田中啓二

本年度は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)から決別できる記念の年になることを強く期待したいと思っています。COVID-19 は 2020 年初頭からパンデミックとして世界中で猛威を奮い、筆舌し難い禍害を人類に与えてきました。実際、我が国でも約 3 年余の長期に亘って、大小 8波の流行が発生し、様々な活動の制限が余儀なくされてきました。しかし、その後 COVID-19 は収束に向かい、昨年5月 8 日には、感染症法上の位置づけが季節性インフルエンザと同等の 5 類となりました。その結果、長らく封印されていた経済活動や社会活動等が大々的に復活し、実際、日本各地で人的活動を中心に賑わいを取り戻しつつあります。このような我が国の動向は、多かれ少なかれ国外においても同じような傾向を辿りつつあります。学術の世界でも数年間、国内外の会議は ZOOM などのオンライン会議が主流で実施されてきましたが、昨年中期頃から対面での会議が頻繁に開催され、また国際交流も活発に行われるようになりました。実際、都内の電車内でのマスクの着用率は 50% 以下に減少してきました。しかしマスク着用が完全に不必要になるまでにはまだ暫く時間を要すると思われます。このように人々が日常を回復しつつあることは幸便でありますが、COVID-19 は完全に終息した訳ではありませんので、当面、その対策に留意する必要があります。実際、実数は不明ですが、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の新たな変異株による COVID-19 感染者数は増加の傾向にあるようです。

また、不思議なことに COVID-19 蔓延中には、インフルエンザ感染症の流行は殆どみられませんでしたが、昨年夏頃から流行の兆しが出始め、今日に至るまで持続的に流行が続いています。インフルエンザは冬期に流行するのがこれまでの傾向でしたので、夏季の流行は異例のことであったように思われます。このインフルエンザウイルス感染者数の増大は、COVID-19 の収束に伴って、多くの人がマスク着用や手洗い・うがいなど日常的な感染防止対策を疎かにしたことに起因しているのかもしれません。さらにインフルエンザの拡大に併せて他の感染症も増大していることは、懸念する必要があります。長い歴史を俯瞰してみますと、人類の歴史は感染症との戦いの連続でもあり、現在、人類はインフルエンザウイルスや新型コロナウイルス等を含めて様々な感染症からの脅威を完全に克服することはできていません。従って、個々人が日常的に感染防止を心がけることが非常に重要と思われます。

科学技術の発展が人々の利便性や国力を拡大することは、国内外を問わず周知の事実であります。この科学技術の基盤となるのが研究でありますが、近年、研究の有り様が鋭く問われています。研究はしばしば、基礎研究と応用研究に二分化されて議論されてきましたが、社会が多様化してきますと、研究の類別の議論が複雑化してきて、基礎研究と応用研究を峻別することが難しくなってきています。基礎研究が発展して応用研究に至る道筋が最も分かりやすい構図ですが、近年、当初から狙いを定めた応用研究が重要視される傾向も見受けられます。例えば、応用研究を積極的に推進するために「選択と集中」という概念が提唱され、幅広く普及してきました。即ち、テーマを定めて大型の研究資金を投入し、短期間に効果的な成果を得ようとする方針です。このように特定の研究分野に研究資源を集中する手段は効果的であり、企業における研究戦略の要諦かも知れません。しかし応用研究の重要性が過度に強調されすぎますと、好奇心を発想の原点とした基礎研究の自由度が喪失しかねません。他方、もう一つの研究の見方ですが、研究には「役に立つ研究」と「(当面)役に立たない研究」に類別することも論争を招いてきた歴史があります。前者の重要性は説明に事欠くことはありませんが、後者は中々に存在意義を見出せないこともあって説明に苦慮します。しかしこの議論を思考する観点において格好の書があります。それは、米国プリンストン高等研究所の創立者(ロベルト・ダイクラーフ)と現所長(エイブラハム・フレクスナー)が執筆したエッセイであります。そのタイトルは、「役に立たない」科学が役に立つ(The Usefulness of Useless Knowledge、原題:東京大学出版会2020)です。本書は、明日の世界(ダイクラーフ執筆)と役に立たない知識の有用性(フレクスナー執筆)の二部構成となっており、成果が顕在化しやすい応用研究に世の中の関心が集まることに警鐘を鳴らし、すぐには役に立ちそうにない科学の重要性を強調しています。

さて上記の議論は、生命科学研究や医学研究にも当て嵌まるように思われます。殆ど全ての病気は生命システムの破綻が原因で発症すると考えられます。生命は気の遠くなるような長い時間をかけた試行錯誤を経て、誕生・進化してきました。しかしながら人類はまだ生命システムの完璧な理解には程遠い状態です。従って、未知な生命システムの全貌解明に迫ることは、基礎研究の範疇に当て嵌まりますが、病気の原因を突き止めて治療薬や予防薬の開発に迫るためには不可欠であるように思われます。生命システムと言いますと、漠然としていますが、その作用の中心は、遺伝子のそしてその翻訳産物としてのタンパク質の働きです。事実、遺伝子の異常が多くの疾病を引き起こすことはよく知られていますので、遺伝子に刻印されたゲノム情報の働きを解明することは、基盤的に重要であると思われます。一方、ガンや感染症等のように研究の成果が疾病の発症機構解明や予防法の確立に直結している有用な基礎研究も多々あります。しかし歴史を振り返りますと、前述の書のように当初「役に立つことを目指した訳」ではない基礎研究の成果が、その後有用性を獲得し「役に立つ研究」に変貌することは、生物研究においても科学史を紐解けば随所に見られます。従って「基礎研究」とか「応用研究」とかに類別することなく、分子から個体に至る生命システムの未知に迫ることが、不可欠ではないかと思われます。実際、基礎研究の成果が後日役に立った例は、枚挙に暇がありません。例えば、最近の話題では新型コロナに対するmRNA ワクチンの開発が挙げられます。昨年度、ノーベル生理学・医学賞を受賞したカタリン・カリコ博士(ドリュース・ワイスマン博士と共同受賞)は、数十年前(1985 年頃)から mRNA の薬剤への応用という基礎研究に長い間取り組んできた結果、mRNA ワクチンの開拓に成功しました。細胞内で分解され易い mRNA を安定化し炎症反応などを阻止する安全な技術を開発したのです。誰もが予期していなかった基礎研究が、COVID-19 パンデミック感染症から人類を救うという輝かしい成果に結実しました。この研究の成功は、科学の醍醐味を象徴していると思います。

近年、計算機科学 / 情報科学(CS: computer science)の一分野である人工知能(AI: artificial intelligence)の未曾有の発展には、瞠目されます。旧世代の人間はこの AI社会に適応し難く、ただ驚きの眼差しで見守るばかりです。黎明期の 1950 年代から、その後急速に発展した AIは、2012 年以降ディープラーニング(深層学習)技術が開発されたことによって、その有効性が加速されることになりました。例えば、AI はチェス、将棋、囲碁などの競技会で世界の強者を軒並み打ち倒して各ゲームを席巻し世界的に認知されるようになり、技術開発に拍車が掛かりました。実際、2015 年に Google の DeepMind 社が開発した「AlphaGo」プログラムが囲碁のトッププレイヤーに勝利し、その後、次々とプロ棋士を圧倒し注目を浴びました。コンピュータが囲碁棋士に勝つことは困難と言われていましたので、AI が勝利したことは驚きを持って迎えられ、世界的な AI ブームを巻き起こしました。

生物学・生命科学の世界へのAI技術の登場、即ち2021年、 DeepMind 社が開発した「AlphaFold2」の登場は、衝撃的でした。この人工知能プログラムはタンパク質の立体構造(折り畳み構造)を予測することを目指して開発された人工知能プログラム(深層学習システム)であります。タンパク質は遺伝情報(アミノ酸配列)に基づいて翻訳された産物(アミノ酸が繋がった一次構造)が立体構造を形成することによって機能します。従って、タンパク質の立体構造を知ることは、生化学・分子生物学の基盤であり、半世紀以上も前から X 線結晶構造解析を中心とした「構造生物学」が誕生し様々な技術革新を伴い発展してきました。

しかし、この方法はタンパク質の結晶化が必須であり、結晶化が困難な膜タンパク質などの構造解析は至難でした。そこでタンパク質を構成するアミノ酸配列からその安定な立体構造を計算科学によって予測することは、タンパク質科学者にとって大きな夢であり、多くの研究が行われてきました。この領域で、革命的な技術が開発されました。 AlphaFold2 であります。この AI プログラムは瞬時に立体構造を極めて高い精度で予測できることを示しました。そして開発の翌年の 2021年、無償で一般に使用可能となり、多くの研究者が恩恵を被ると共に生命科学研究に計り知れない影響を与えました。勿論、最終的には X 線結晶構造解析などによる構造解析が必要でありますが、その予測の高精度から多くのヒントが得られることが判明し、 AlphaFold2 の有用性は瞬く間に生物学の世界に浸透してゆきました。

一般社会への AI の突然の登場は、ごく最近のことでありますが、大きな話題となっています。とくに生成(ジェネレーティブ)AI は、学習能力がある AI です。従来の AI は予測が主目的でしたが生成 AI は創造できることのようです。2022 年末頃に開発された対話型 AI「Chat GPT」は、恰も人間の文章が理解できるかのように的確に応答でき、その有用性は世界的なブームとなっています。このような生成 AI の知的な情報処理システムは、特に人類固有の特質と信じられてきた「言語」についての概念にも変容が迫られていると言えるかも知れません。コンピュータが言語を理解できるようになると、人間の知的活動とは何か、ということについても新たな解釈が必要な時代が到来するかもしれません。また AI は数学や物理学などの基礎科学領域のみならず、最近では、生物学や医学の世界にも深く浸透しつつあります。勿論、AI は産業のみならず教育の現場やその他様々な分野で幅広く活用されており、その有用性は自明です。他方、そのメリット・デメリットについては激しい議論を巻き起こしています。いずれにせよ、今世紀は AI 抜きでは、人類の活動を物語ることができないようになるのかも知れません。

さて生物学・医学の研究者にとっては、改良を重ねつつある生成 AI が生命の謎にどこまで迫れるのか、そして疾病の発症機構の解明に辿り着けるのか等、興味が尽きませんが、これらが一挙に解決すること、即ち AI が生命を理解することは、それほど容易では無いと思われます。しかし、これらの技術が医療の現場や生命医学研究に大きく貢献することには疑いの余地はないように思われます。科学技術の進展が人類の発展に及ぼしてきた大きさは、歴史を垣間見ると明瞭であります。AI は今世紀が産んだ “ 化け物 ” とも言うべき最先端技術かも知れませんが、その有効性を正しく理解し適切に活用することが重要なように思われます。

本年の元日に発生した令和6年「能登半島地震」の被害の深刻さには、言葉もありません。日本は、紛れもなく地震列島です。未曾有の災害を引き起こした阪神・淡路大震災(1995年)や東日本大震災(2011年)のような巨大地震を含めて大小あわせますと、日本における地震の発生件数は、年間数千に上るとのことです。また火山噴火や豪雨水害などの自然災害も相次いでいます。これらの大規模な災害は地球的規模で起こっており、さらに世界の随所で発生している戦争の惨禍にも心を痛めます。2024 年が安全で平和な年になることを祈らざるを得ません。