HOME広報活動刊行物 > April 2019 No.033

特集

新年度挨拶 〜独白〜

理事長田中 啓二

田中啓二

本年、平成の時代は終焉します。都医学研が発足したのは平成23年(2011年)であり、この年、未曾有の東日本大震災や福島原発事故が発生しました。わが都医学研も旧三研究所が統合し、新生への道のりを歩み始めてから、同じ時間が推移してきました。この間、国内外に名声が轟くような学術的レベルの高い研究所の創成を目指して邁進してきました。その結果、国際的な大手情報企業の調査から、「都医学研は日本有数の生命科学研究所である」との評価を受けるようになり、わが国を牽引してゆく研究所として面目躍如の活動をしてきました。加えて研究成果の社会還元にも積極的に取り組み、現在、基礎研究の成果を基盤とした二つの医師主導治験を実施中であります。さらに都民に直接関わる社会科学研究も“認知症ケアプログラムの開発”など都民の生活向上に向けて、実際に貢献できる成果を着実に挙げてきています。そして都医学研に所属するユニークな研究員が頻繁にマスメディアに登場するなど研究所の知名度の向上に大きく寄与してきています。

私は昨年3月所長を退職、正井久雄新所長を中心とした新体制に研究所の運営を引き継ぎました。世代交代は、組織発展の起爆剤となる他、激動する時代の動向に柔軟な精神で冷静沈着に対処してゆくためにも、不可欠であります。そして都医学研が未来に大きく羽ばたいてゆくためには、過去に培ってきた重要な遺産を継承すると同時に、必要に応じて大胆な改革を積極的に推し進めてゆくことが必要です。私はこれまでの経験を生かして必要な助言を与えながら新体制の野心的な舵取りを慎重に見守ってゆきたいと考えています。今後、都医学研が現在の成長基調をさらに拡大させ、そして大都市東京の文化の象徴としての役割も担いながら、社会貢献に資する成熟した組織に発展してゆくことを心底から期待しています。

平成元年(1989年)は、私が“プロテアソーム”と命名した酵素を発見した翌年でありました。まだ暫くは研究をささやかに継続しますが、本年、古希を迎えることを考えますと、平成の30年間は、私にとって正に研究者人生の殆ど全てを費やしてきた時間といっても過言でありません。わが国が戦争の惨禍からの疲弊を克服した昭和に続く平成の時代、現在やや低迷しているものの、日本経済は黄金期を迎えていました。そして、何よりも平和な時代であり、この間、好奇心の赴くままに生命の謎に迫る研究に没頭できたことは、何ものにも代えがたい幸運でありました。現在の心境は、Douglas MacArthurの言葉を借りますと「Old soldiers never die, they just fade away:老兵は死なず、ただ消え去るのみ」といったところです。実際には、もう少し長生きをして、私が平成の時代に心血を注いで研究してきたプロテアソームの世界がどのように開花するのか、はたまた朽ちてゆくのかを見届けたいというのが、偽らざる思いであります。

最近、畏友大隅良典(東京工業大学)栄誉教授や永田和宏(京都産業大学)タンパク質動態研究所所長たちと、杯を重ねる機会が多くなっています。大隅さんはノーベル賞という至高の栄誉に輝くと共に、永田さんは細胞生物学者としての名声をほしいままにしながら現代屈指の歌人としての顔も併せ持つ異能の人です。同世代の私たちが共有する感慨は「僕らの時代は良かったね!」であります。本音は、何も考えずに基礎研究に邁進できてきたことへの歓びと感謝を意味するものであります。これは、一つのアンチテーゼです。実際、われわれが懸念していることは、現代社会に蔓延している「選択と集中」の施策が、果たして日本における科学の健全なありようであるのか、即ち「役に立つ研究」が声高に叫ばれて、大型の研究資金が無尽蔵に注ぎ込まれている現代の風潮です。科学において重要なことの一つは、新しい社会の創成に必要な、そして夢と希望に漲った次世代の人材育成でありますが、この視点を蔑ろにした政策が横行しすぎているのではないかと言う問いかけです。

よく考えてみますと、山中伸弥博士の再生医療に関わるiPS細胞や本庶佑博士の免疫チェックポイントがん療法のキー分子であるPD1抗体は、元来は基礎研究で得た成果であったものが、後年、偶然に付加価値が付き「役に立つ研究」に変貌したものです。「すぐには役に立たない(基礎)研究」が非常に「役に立つ(応用)研究」に変貌する例は、枚挙に暇がありません。また基礎研究は在野に散らばった煌めくような才能を発掘するためにも必要不可欠であり、この発掘こそが科学技術立国として日本を永続的に支える基盤となります。従って、基礎研究の充実を図ることが何よりも必要であり、大隅さんはその理念を実行するために基礎研究の助成を目的とした「公益財団法人大隅基礎科学創成財団」を立ち上げ、日々積極的な活動を展開しています。近未来に、中国・インドは科学力や経済力を基盤に国力を大きく拡大し、米国がやや衰退して、これらの国々が均衡を保ちながら切磋琢磨を繰り広げて行く時代が到来することは、疑いがないように思われます。その狭間で、科学技術立国を標榜するわが国は、手を拱いている訳にはゆかないと思います。多くのノーベル賞受賞者たちや自然科学を牽引する知識人たちは、「基礎研究こそが、国家の繁栄と人類の知の創成の基盤となる」と、異口同音に現在の基礎科学への支援の手薄さに警鐘を鳴らしています。

さて私ごとですが、兼務していた所長職を辞し、時間的なゆとりが充分確保できる、つまり時間を持て余すことを予見して、一念発起したことがあります。それは、江戸時代に整備された五街道の独り歩きの旅です。世の中には、旅に関する書物は溢れています。例えば、司馬遼太郎の「街道をゆく」は、四半世紀にも及ぶ未完の思索紀行集であり、長年、愛読してきました。私の場合、歩き始めた理由は二つあります。一つは、積極的に歩いて足腰を鍛え、少しでも健康寿命を延ばしたいという野暮な目論見です。もう一つは、私が歴史好きであり、街道に散在している名所旧跡・神社仏閣などを、ゆっくりと探訪したいという目的であります。五街道は全て日本橋を起点とします。近郊の三街道(日光街道・奥州街道・甲州街道)は、週末の1日、電車を乗り継いで、経由地に辿り着いてから夕方まで歩き、また電車で帰京します。東海道や中山道は、後半分くらいの行程は一泊程度の宿泊を余儀なくされそうです。

日光街道の歩き旅は、日本橋を出発、隅田川・荒川・利根川を超え、宇都宮を経て日光までを7日間28万歩で辿り着きました。往復路、東京を離れるとローカル線を乗り継ぎながら、新幹線では見えない風景を楽しむことができる “ゆったり”とした旅であります。日光東照宮は、大修復を丁度終えたところであり、本殿・拝殿や陽明門などは、極彩色が美しく甦っていました。左甚五郎作「眠り猫」は、実は薄目を開けて徳川家康廟を守っているそうであります。まあ「私の理事長職のようなものかな」と思いました。「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿なども堪能しましたが、人が生きる術として周囲との軋轢を生まない精神としては、見上げたものと感得しましたが、研究所のような組織には、相容れないように思いました。“争いも辞さず”とは申しませんが、大きな組織目標を定めて積極的に活動しないと、栄誉と名声を勝ち取り、安寧の日々を得ることはできなくなるでしょう。

甲州街道は、最大の難所と言われている笹子峠を寒さで越えられず、春を待っている状況です。街道に遺されている本陣・脇本陣などには、随所に近藤勇や土方歳三などにまつわる話が集積しており、私のように新撰組大好き人間には、堪えられません。さて街道には山越が随所にあって、登山経験がない私にはとても辛い歩き旅となります。高尾から相模湖に抜けるには、小仏峠を越えねばなりません。「これは大変!」という訳で、健脚の米川博通元副所長ご夫妻に一緒に歩いてもらいました。笹子峠もご一緒していただく予定です。笹子峠を越えると、ワイナリーが林立している楽しみな勝沼、その向こうが甲府です。甲州街道は、実は甲府が終わりでなく、下諏訪が最終地点でありますので、今は、まだ半分を攻略した程度に過ぎず、なんとか夏頃までには踏破したいと思っています。

最近、東海道五十三次の歩き旅を開始しました。実は街道歩きを始めたことを宴席で吹聴しますと、同席していた件の永田歌人が興味と共感を示し、彼が京都三条大橋から東京日本橋を目指すことになり、2月3日(節分)に東西から同時に歩き始めました。1日目は、日本橋から川崎まで約38500歩でした。途中、泉岳寺に立ち寄り、忠臣蔵に思いを馳せました。参拝客は多く、ずらりと並んだ浅野内匠頭、瑤泉院や大石内蔵助・堀部安兵衛など赤穂浪士一人一人の墓に香煙が立ち込めていました。東海道は、かなりの時間を要しますが、今年中に、中間地点の袋井宿あたりで邂逅できれば、とても楽しい酒盛(至極の酒宴)に酔いしれることになると、今から二人でワクワクしています。これを捕らぬ狸の皮算用と言います。と言いますのは、小田原から箱根峠辺りで、挫折ということにもなりなりかねませんので・・・。私は、本年、古希を迎えます。喜寿までに五街道制覇という野望に燃えています!意気込みは良いのですが、「それまで命を永らえられるか、はたまた根性が頓挫するかは、神のみぞ知る」であります。

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