HOME広報活動刊行物 > January 2013 No.008

特集

年頭所感

東京都医学総合研究所 所長田中啓二

田中 啓二

謹賀新年!新研究所が発足して2年目の新年を迎えました。「産みの苦しみ」と申しますか、昨年は研究所統合後の運営について数々の改革や時々に発生した不具合の解消などに積極的かつ真摯に取り組み(併せて学術会議や学会活動及びJST・CRESTの総括就任などにも関与し)粉骨砕身、何とも多忙な一年でありました。本来であれば、新しい年に向けて研究員各位の活力が漲るような檄を飛ばすべきなのでしょうが、何分多忙ということもあり、昨年、私の周りに起きたことに対する感想を記すことで、新しい年に向けての希望と研究所の職員へのメッセージに換えたいと思います。

2012年は日本の生命科学史において永遠に記憶される年となりました。いうまでもなく山中伸弥教授のノーベル生理学医学賞の受賞であります。iPS研究が世界に与えた衝撃は圧巻でありましたが、私はこの独創的な研究の功績の核心は、不治の病に直面しただ絶望しか見出し得ない多くの患者・家族の方々に希望という熱い夢を与えたことだと思っています。健康快復の夢を奪われ悲嘆以外に成す術もない多くの人々に希望という未来を届けたことは、何ものにも代え難い大きな価値があるように思われます。最先端領域での医学研究者たちの必死の努力にも関わらず、世の中には未だ原因不明の難病が数多く存在します。iPS研究の醍醐味が病気の治療手段の開発に革新的な可能性を拓いたことにあることは勿論でありますが、加えて強調致したいことは、その刮目すべき業績が熟練とはほど遠い新進気鋭の研究者の無謀な発想に基づいた基礎研究によって成し遂げられたということであります。その結果は、「山中4因子」と言われる‘先祖帰り’を誘導する遺伝子の発見に帰結しました。そして独創性に満ちた初期研究が、当時無名の研究者の手によって、そして開学して日の浅い決して規模の大きいわけではない大学において行われたことは、科学研究の大義と実践の視点から、象徴的なことのように思われます。

研究組織の大小などは大きな問題でなく、病気という謎の解明に挑む強い意志のみを武器に可鍛に挑戦し続けた無私の精神が、結果的に人類の未来に大きな価値を残す偉大な功績を挙げることに繋がったと思われます。実際、最終分化した成熟細胞が多能性を有する未分化状態に(それも僅かの遺伝子の導入によって)変換できることの発見は、おそらく当該分野のプロであればその非常識さゆえに決して手をつけなかった課題と思われますので、この聡明で豊かな感性の溌剌とした冒険に諸手を挙げての讃辞を惜しみません。iPS細胞の出現は、まさに最終分化の不可逆性という発生学の古典的概念が瓦解した瞬間であり、既存概念を一変させた珠玉の発見は、学術的にも無上の功績と思われます。しかし人工多能性幹細胞がもつ無限の増殖能の獲得が常にガン化の危険性を孕んでいることは、その遺伝子の機能から敷衍すると専門的にはいわずもがなでありますが、この副作用の克服には山中4因子なるものの正体(作動機構)の解明が焦眉の急の学術的命題であること、そしてこの解明なしにiPS細胞が医学における応用への核心に迫れないことは論を待ちません。繰り返しますが、iPS発見の意義は、基礎研究の輝かしい勝利であることに尽きると思っています。そして人類の福祉に大きく貢献するとともに、人類の知の発展に鋭く資するものになる山中教授の成功が次世代の柔軟で野心に満ちた若い研究者たちを感化して、基礎科学研究の重要性を喚起する一助となることを心底から期待したいと思っています。

さて旧年は、個人的にも僥倖の年でありました。畏友である大隅良典東工大教授がオートファジー(自食作用)の研究で‘京都賞’を受賞したからであります。大隅教授は、それまで停滞の波底に沈潜していたオートファジー研究を根底から覆し、現在、国内外において破竹の勢いで進展している分野の火付け役を果たしたのであります。同教授によるオートファジー遺伝子群の発見は、それまで分子生物学の恩恵を受けることなく傍流の科学に甘んじていたオートファジー研究が最先端科学の洗礼を受けて生命科学の檜舞台に躍り出る原動力となりました。この優れて独創的な研究の威光は、国内外の哺乳類オートファジー研究に脈々と伝承され、その壮大な仕組みが明らかになってきますと、オートファジーは生理学や病理学を含めて止まるところを知らない勢いで発展の限りを尽くしています。特筆すべきことは、大隅教授が切り拓いたオートファジー研究は、紛れも無く日本が世界をリードしている数少ない科学分野の一つであることであります。大隅教授は流行を創成した立役者であり、国外の著名な研究者たちから“Father of Autophagy”との尊称で呼ばれています。大隅オートファジー研究の真骨頂は、酵母の遺伝学を基軸とした基礎研究の英知に長けた誉れ高い成長であり、その燦然とした輝きは、日本の生命科学の優位性を世界に鋭く放っています。私の個人的感想ですが、大隅教授はやがて世界最高の褒賞を受賞されると思っており、その時に至れば、基礎研究の重要性が巷間に木霊して「科学技術立国」日本の象徴になると期待しています。

話はかわりますが、ご存知のように現在のわが国は、男性が80歳・女性が86歳(平均寿命)の超高齢化社会の真只中であります。その例に漏れず私が知遇を得ています80歳以上の諸先輩方は、意気軒昂で人生を満悦・謳歌しておられますが、それらの方々と晩餐会をご一緒する機会が多々あります。このような機会に隣り合わせていつも思うことは、健康で長寿の先生方のほとんどが、実に食欲が旺盛でいらっしゃることであり、それに比して「貧食な自分は長寿にはむかないな」との思いに嘆息せざるを得ないことであります。これらの経験から「人間、食べられなくなったら、終わり」との伝承は、言い得て妙と納得していますが、これは学術的に正鵠なのでしょうか?従前からカロリー制限が寿命を延ばすことは、学術的に金科玉条の真実として物語られてきましたが、昨年、この概念の真贋を問う論文(25年に及ぶアカゲザルの研究成果)がNatureに発表され2009年Scienceに上梓された論文との比較から、多くの混迷と騒動を巻き起こしました。とりわけ否定的な見解の論文を採択したNatureはマスコミを動員して、従前の常識に警鐘を鳴らしましたので、世間の議論は沸騰し活況を呈しました。しかし、その筋の専門家に訊ねますと、実験条件とくに餌の質と食べさせ方が大きく違ったために見掛け状真逆の結論を得たのであり、実験結果を冷静に検証すれば、矛盾というものでもないらしいとの返答を聞いて密かに安心しました。詰るところ、脂肪分の多い美味な餌と間食が健康を害し寿命を短くするという結論には、異論はなさそうであります。飽食が高度に発展した文明社会の一つの特徴であるとしますと、長く健康を維持するためには、やはり節制が必須のようであります。しかし最初に記しましたように健康な高齢者たちの食欲の凄さを見聞きしますと、カロリー制限とlongevityとの因果関係について個人的には(非科学的と言われるかもしれませんが)些か釈然としない疑念を払拭できずに懊悩しています。とは言え私も豊満な腹部の対処方法を見出せていませんので、カロリー制限を実行できない意思の弱さに学者失格の烙印を押されそうです。とは言えまあ時々元気に飽食を楽しみかつ適度に飲酒することを無上の歓びとしている不心得者においては、短命も止むなしと達観しています。もはや秦の始皇帝が探し求めた不老不死の妙薬に恋憧れるといった心境でもありませんので、今はただ日々のストレスをいかにお酒で解消するかに腐心している案配です。この怠惰な生活習慣、やはり長寿とは無縁のようです。

個人的な感想ですが、多難であった昨年において特筆すべき出来事が9月にありました。約30年前の恩師Alfred L Goldberg教授(弱冠35歳で米国ハーバード大学医学部細胞生物学部門教授に就任)の生誕70 歳を祝うreunionシンポジウムと晩餐会に招聘されたことでした。大きな成功を成し遂げたGoldberg博士の衰えを微塵も感じさせない意気軒昂な熱い研究に対する意気込みに驚嘆するとともに、四半世紀来の旧友と再会し文字通り感激の嵐に巻き込まれた一日を過ごしました。翌日、米国東部の景勝地Cape Cod(Goldberg教授が保有する豪華な別荘地)へ招待されましたが、その豪華さは兎も角、近接したウッズホール海洋研究所(GFP発見の下村徹博士をはじめ単一研究所として世界最多のノーベル賞受賞者を輩出)の見学とその一室を借りてのミニシンポジウムの開催など研究に対する激しい情念には、脱帽させられました。と同時に帰国便への時間の余裕から30年前に約2年間過ごしたボストンの町並みや美術館などの散策に幾ばくかの時間を得て、時の流れを感じさせない英国風の街角の懐かしい匂いとの逢瀬を存分に楽しみながら至福の時に身を任せました。

最後にわが都医学研は、一昨年の統合に伴う余波を受けて研究への影響が懸念されていましたが、昨年、多くの研究員たちの凄まじい努力の結果として数多くの研究成果が新聞やTV等のマスメディアに取り上げられ、漠然と持ち続けていた停滞の不安は払拭されました。例えば、2012年度の主な研究成果として「染色体複製制御因子の発見」「ニューロンとグリア細胞の産生バランスを制御する因子の発見」「学習・記憶のメカニズム」「酸化ストレス・センサータンパク質の分解機構」「パーキンソン病の発症抑制機構」「ヒト遺伝情報の複製ルールを決定する因子の発見」「異常TDP-43の病態解明」「行動制御に関わる前頭連合野の役割分担の解明」「薬剤による視神経損傷の軽症化」「C 型肝炎ウイルスの増殖メカニズム」「鎮痛薬感受性と依存重症度に影響する遺伝子配列の差異発見」などに関する多数の論文を発表しております。ここでは紙面が限られているため、それらの詳細は割愛させて頂きますが、都医学研のHPに記載済みでありますので、是非ともご覧下さい。これらは全て基礎研究の成果でありますが、さらに都医学研は研究成果の都民・社会還元を目指して様々な活動(都医学研シンポジウム、都民講座、サイエンスカフェなどの開催)にも積極的に取り組んできました。と同時にわれわれは都民の健康を守るための具体的な施策として、都立病院との共同研究を前提とした脳病理標本リサーチセンターの設置、早期ガンマーカーの探索研究、統合失調症の治療に関する医師主導型治験、ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の在宅看護活動なども積極的に推進してきました。さらに昨年は、正井久雄参事研究員が第5回アーサー・コーンバーグ博士記念賞をそして西田淳志主任研究員が第1回「明日の象徴」(社会政策部門)を受賞致しました。このように昨年は、研究所の繁栄を受け多忙でありましたが、同時に充実した1年でもあったと総括できるようです。本年は、新研究所がさらに発展する基盤作りの仕上げの年にしたいと意気込んでいます。関係者各位のご支援・ご鞭撻を賜りたいと存じますとともに、皆様方のお一人お一人が多幸な年となりますように祈念いたします。

※可鍛(かたん)・・・外力などで壊れることなく変化し、強度や靭性を向上させること

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