Oct. 2020 No.039
副所長糸川 昌成
はたして、私たちは正しく歩み進んできたと言えるのだろうか。たとえば、進歩史観という考え方がある。19世紀のヨーロッパで確立された、過去の歴史を現在までの発展過程―古いものほど未熟で誤っている―ととらえる考え方だ。進歩史観に則れば、江戸時代より明治の方が正しく、物々交換より貨幣経済のほうが優れており、資本主義は最も発展した経済システムということになる。本当にそう考えて良いのだろうか。
たとえば、享和2年(1802年)のインフルエンザのパンデミックとみられる疫病では、「其日稼」と呼ばれた行商人や職人たちに、江戸幕府から「御救」と名付けられた銭や米が緊急的に給付された1)。当時の江戸の人口は100万人ほどで、武士を除いた人数は60万人と推計される。その半分が給付対象となったわけだが給付の決定からわずか12日で配り終えてしまったのだ。ついこの間、私たちが定額給付金を受け取るのに要した日数と比べると信じられないスピードではないか。
財源となる「七分積金」は、地主が毎年2万5,900両、幕府も2万両を出資し、ふだんは地主向けの低利融資などで運用された。平常時から名主や大家を通じて住民の家族構成や職業、収入状況など把握していたからこそ、いざというとき素早く給付できたわけだ。ベリー来航時、交渉責任者となった大学頭林復斎は「人命を第一に重んじることでは日本は万国に勝っている」と啖呵を切ったというではないか(墨夷応接録)。中学の進歩史観的な教科書で習った封建社会とは、ずいぶん印象の異なる話ではなかろうか。
もうひとつ、進歩史観を覆すような話をしてみようか。人類は10~20万年前にアフリカで誕生した。当時は採集狩猟生活をしていたと考えられる。1万~5,000年ほど前に農耕牧畜が始まり、18世紀に産業革命を経験して工業都市化した生活へと移行する。これらは、人類の生産効率と生活水準向上の歴史ととらえられることが多い。ところがだ、アフリカ・ブッシュマンのサン族の研究によれば、採集狩猟のほうが第二次大戦前のヨーロッパの農民より食料獲得効率が高かったのだ2)。初期の農耕は狩猟よりはるかに長時間の重労働を強いられたからだ。平均寿命だって採集民のほうが農民より長かったのだ。さらに、人が密集する都市は衛生状態を良好に保つことが難しかったため、都市の死亡率は農村より高かったという。
いま私たちが直面する新型コロナウイルスのパンデミックは、最も発展したはずの都市生活の三密によって加速されている。どうも、私たちは過去から見て最も発展できた社会を実現できているとは言えないのかもしれない。
以上のようなことを、コロナ後の社会を見据え、初めてウェビナーで実施された医学研セミナーでお話しいたしました。
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