HOME広報活動刊行物 > January 2016 No.020

特集

年頭所感

東京都医学総合研究所 所長田中啓二

田中 啓二

2014 年のノーベル物理学賞独占や2015 年のノーベル物理学賞及び生理学・医学賞受賞など)は、わが国の学術の高さを象徴するものとして、大いに誇るべきことであります。とくに大村智北里大学特別栄誉教授にノーベル生理学・医学賞を授与されましたことは、個人的にとても祝意を感じています。と申しますのは、私は或る時期かなりの期間に亘って、大村先生と研究上の交流があったからであります。数多くの抗生物質を発見、人類の福祉の向上に多大に貢献された大村先生の学術的功績、殊にノーベル賞の受賞対象となったイベルメクチン(細胞内Cl -流入により寄生虫を死滅させる物質:熱帯地方で蔓延しているオンコセルカ症の予防薬であり、年間2 億人もの人達を病魔から救済している医薬品)の開発と医学的応用に関する物語は、昨年末から多くの報道機関で報じられている通りであります。他方、頻繁には取り上げられていませんが、大村先生はイベルメクチン以外にも、化学・医学の研究分野で活用されてきた抗生物質を土中の微生物から多数発見されています。それらの中の代表的な例としては、セルレニン(脂質合成阻害剤)、スタウロスポリン(プロテインキナーゼC阻害剤)、ラクタシスチン(プロテアソーム阻害剤)などが挙げられます。

実は、私のライフワークでありますプロテアソーム(不要なタンパク質を選択的に分解する細胞内装置)の研究は、ラクタシスチンの登場によって飛躍的に進展しました。それは、1990 年前後に大村先生がニューロンの神経突起伸長誘導物質として細菌から単離された天然有機化合物ラクタシスチンが、プロテアソームの特異的な阻害剤であったからであります。生化学史上他に類を見ない巨大で複雑な酵素複合体であるプロテアソームの研究は、当時、筆者らの分子生物学的技術を駆使した構造研究によって、大きく進展していましたが、その触媒作用(作動機構)を含めて多くの謎に包まれていました。何と言っても肝腎の生理作用がまったく不明でありましたが、ラクタシスチンは、これらの難題解明の糸口となりました。実際、ラクタシスチンはプロテアソームの活性部位の同定や生物作用の解明に大きな威力を発揮しました。その詳細は割愛しますが、これまでに約1500 編の関連論文が発表されていることからも、この阻害剤が如何に有用であったかが窺われます。私もラクタシスチンを大いに利用させて頂いた一人であり、実際、大村先生との共著論文が10編近くあります。私は1997 年、第8 回臨床研国際カンファレンス「Ubiquitin and Proteasome:A New World of Proteolysis」を主催しましたが、大村先生にもご講演を頂き、先生の「ラクタシスチン発見物語についての講演」は、大きな拍手で終焉し聴講者たちに深い感銘を与えました。もう随分前になりますが、北里研究所での講演にお招き頂いた際には、先生が思慕されています北里柴三郎とその師でありますロベルト・コッホ(近代細菌学の開祖)の来日を記念して研究所の敷地内に建立されたコッホ・北里神社にも参詣させていただきました。現在、私が甘受しているセレンディピティ(偶然による幸運)は、その福音かもしれないと思っています。

大村先生は、受賞決定直後のインタビューにおいて、「私の成果は、微生物のお陰です…」という率直なコメントを連発しましたが、これは人口じんこうに膾炙かいしゃした名言であるとともに、学術的に考えますと、「なぜ微生物は人類に福音をもたらす多くの抗生物質を生産しているのだろうか」という素朴な疑問が湧いてきます。勿論、その生産物が微生物の生活環に有用な物質である場合、文句なく首肯できますが、実際には、それらの大部分は、産生する微生物にとって毒にも薬にもならない物質だそうです(勿論、彼らに人類に貢献したいという意図がないことは明白です)。私はこの不可解について高名な微生物学者に訊ねたことがあります。その先生の答えは明瞭で、「微生物にとっては自分の生存に必要な遺伝子はほんの僅かで十分であり、余っているゲノムが好き勝手に遊んで様々なタンパク質を作り、その産生物を分泌しているようだ。ヒトがそれらを有用な抗生物質として利用しているのは、偶然の所産に過ぎない」との返答でありました。この応答の真偽は兎も角としても、微生物が産生する多くの有用な抗生物質の存在を鑑みますと、生命の不思議に目を見張る思いがします。そしてこの遺伝子の「ゆとり」ともいうべき自由な振る舞いは 、分子進化の視点からも興味が尽きません。遺伝子の分子進化を考えますと、今日、ダーウィンが唱えた自然選択(淘汰)説は成立せず、大部分の遺伝子の進化に優劣はないという木村資生先生の「分子進化の中立説」が正鵠せいこくを得ていると考えられていますので、微生物が気の遠くなるような長い時間をかけて試行錯誤を繰り返しながら多様な物質を無目的につくり続けていることには、驚きを禁じ得ません。現代屈指の科学技術を駆使しますと、人為的に1010程度の多様性に富んだペプチドライブラリーが作製できるようでありますが、生物は、いとも簡単にこのような仕組みを進化的に獲得し、必要・不必要を問わず、様々な物質を自在に生産してきたこと、そして同じメカニズムで生命を誕生させてきたことを考えますと、もはや神の領域としか思えない自然の偉大さに脱帽せざるを得ません。

私は、国際学会などで海外へ出向く機会が多いのですが、最近は欧州からの招聘が多くなっております。欧州の学会のレベルもさることながら、その間に垣間見ることのできる文化と歴史の匂いは心地良く感じられます。実際、古風に彩られ石畳が敷き詰められた欧州の諸都市を散策しますと、必ずしも経済的に大きな発展を遂げているようにはみえない国の小都市であっても、それぞれの場所に独自の文化や伝統を背負っている風景が点在していることに感銘を受けることしきりであります。一方、都市開発の名目で拡大の一途を辿る、そして押し並べて均一化する傾向が強いモダニズムに横溢した日本の大都市の(辺境地方の荒廃とは裏腹な)発展動向を俯瞰しますと、それが文明の成熟点とは思えない違和感を強く覚えるのであります。利便性・洗練性・安全性など多くの点で最も賞賛を浴びている大都市の筆頭が東京であることは、不便さに戸惑うことの多い異国の旅路において実感できますが、これらを縦に甘受できる安堵感とともに、逆に文化喪失とは言わないまでも、そこに生息する人々の文化に対する息吹が希薄であり、やや文明国家としての固有の歴史や風土を喪失してゆく焦燥感に苛まれます。勿論、東京にも文化や伝統を風景として背負っている場所が数多くあり、そこに暮らす人々の息吹が生活に根差していることは理解しております。しかし、東京の画一的な近代化は、戦禍によって灰燼かいじんに帰したことが大きな要因でありますが、一方、同様に大規模な空襲で完璧に破壊されたドイツにおいて多くの都市の古い街並の大部分が焼失前と同じ風景に復元されていることを見聞きしますと、文化の継承という観点からはその落差に愕然とします。しかもこの状況は、東京の大規模開発が進めば進むほど顕在化するように感じられてなりません。そして、東京を含めて日本の大都市が、近代的な高層ビルを林立させて同じ色・同じ匂いに染まっていることを発展・進歩の象徴と見なす風潮が、歴史や伝統を守る精神において少なからず澱んでいるようにも思われます。

ご存知かと思われますが、毎年「世界の都市総合力ランキング」なる都市の品格度合いを示した評価表が発表されています。東京はここ毎年4番の位置を占めています(1 ~3 位はロンドン・ニューヨーク・パリ)が、ここではその順位を忖度そんたくするつもりはありません。注目すべきことは、その評価基準であり、具体的には①経済、②研究・開発、③文化・交流、④居住、⑤環境、⑥交通・アクセスの6 分野、70 指標で評価されている尺度であります。これらの指標から東京が上位にランク付けされている理由は首肯できますが、同時に最高位に達し得ない理由としては、文化・交流や研究・開発のポイントがあまり高い評価を受けていないのではないかという感想を抱いています。私はことある毎に「研究は文化の象徴である」と主張していますので、都市の品格の判断に研究力や文化力が評価基準として設定されていることは、一つの見識として賛意をもっています。さて文化交流と言いますと、端的には海外への人の往来が一つの尺度でありますが、最近、学術に通じた識者たちから声高に指摘されていることは、欧米の大学への留学生が激減している状況への深い懸念であり、この動向は近未来における日本の国際性堅持に不安を抱かせる要因となっています。勿論、独自の文化を持つことは国家の矜持きょうじではありますが、同時に人的交流なくしてはグローバルな世界での価値観の共有や国家の持続的な繁栄が危ぶまれる事態に陥りはしないかとの見識が披瀝されているのであります。また、次世代を拓く人材育成こそが、文化の象徴としての研究・科学を発展させるための要であることに疑いの余地はないように思われます。実際、瀟洒しょうしゃで煌びやかな建築群などは、時間の経過とともに朽ち果て風化してゆきますが、文化や技術の発展を継承し、優れた時代の精神を次世代へ引き継ぐ唯一の手段としては、人材養成以外に考えられません。

現代の日本は、研究力・教育力こそが国家の品格の基軸であることにもっともっと目を向けるべきであります。例えば、2015 年度に英国の教育誌が発表した「世界大学ランキング」を見てみますと、東京大学が43 位、京都大学88 位であり(本年、シンガポール国立大学・北京大学の後塵を拝しています)、わが国の学術力が国力に比して下位に甘んじている状況は明白であります。実際、わが国の学術論文の発表数(総数および主要論文数とも)が、近年、長期低落傾向にあることは、紛れのない事実であり、今なお増加傾向にある欧米の主要国そして発展著しい中国などの現状と比較しますと、日本の将来に不安を感じます。応用科学への偏重が基礎科学力の衰退を導き、近未来の国家の命運に少なからず悪影響することが危惧されるのであります。即ち「最近の日本の科学行政が基礎科学よりも経済的な成長に貢献する応用科学を重視する風潮は、看過できない問題である」との多くの識者の指摘は、正鵠を得ているように思われます。

勿論、経済的な発展を企図し、福祉を向上させることは、成熟した文明の基礎でありますが、一方、未来に向けての国家の繁栄を持続させる戦略の要は、人材育成であり、科学に興味を持つ若人の裾野を拡大するためには、何としても基礎科学の体力を向上させることが必要です。冒頭に記した幾多のノーベル賞の栄誉を得た研究は、四半世紀以前の研究成果であり、今後この傾向が持続することを願って止みませんが、現況の情勢を顧みますと、数十年後には日本からのノーベル賞受賞者が激減する可能性を示唆する意見も多数あります。この状況を打開するためには、基礎科学から有為な若人が離れて行くことを、是非とも回避すべきであり、散逸しつつある才能をなんとしても基礎科学が吸収できなければ、日本の未来は明るくないように思われて仕方がありません。教育力・研究力の向上には、長い時間を要しますが、一旦、その総合力を喪失しますと、その復活は容易ではありません。従って、基礎科学力を高めることが社会の成長・発展の基軸であるという概念を普遍的な常識として社会に普及し根付かせることが何よりも大切であるように思われます。

お正月

最後になりましたが、2016 年の新しい年を迎え、東京都医学研は、これまでの成果を承継するとともにさらに研鑽を積み、日本の研究レベルや東京の文化の向上に、貢献できるように邁進して行く覚悟であります。関係諸氏からのご支援を賜りますように、宜しくお願い申し上げまして、新年のご挨拶とさせていただきます。

ページの先頭へ