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April 2017 No.025
こどもの脳プロジェクトリーダー佐久間 啓
こどもに関係することで、近頃マスコミによく取り上げられる話題にはどのようなものがあるでしょうか?保育園の不足による待機児童の問題は、女性の社会進出を促す流れともあいまって自治体や国政までも動かすようになりました。こどもの貧困も格差社会が生み出した負の側面として見逃すことはできません。高校生がスマホを持つことは今や当たり前となり、ゲームやネットへの依存がこどもを蝕んでいます。高度経済成長を経て成熟した社会で暮らす私たちは、かつて手に入れようともがき苦しんできた物質的な豊かさを得た一方で、社会の変化がもたらす新たな問題に直面するようになりました。
生まれたこどもの10 人に1 人が死亡していた時代など遠い昔のことで、今やこどもは余程のことがない限り健康に育つと誰もが信じて疑いません。
しかしそれは大きな間違いだと私は思います。確かに医学と医療の驚異的な進歩により、これまで不治の病と考えられてきた多くの病気が治せるようになりました。人の遺伝情報は解読され、これらを網羅的に調べることで遺伝子の異常に起因する病気は理論的には全て見つけることができる時代になりました。しかしそれでもなお、現実としては多くのこどもたちが病に苦しみ、時に命を落としています。
昭和初期には「疫痢」という病気がありました。細菌性赤痢(赤痢菌という菌が原因で起こる腸の感染症)の重症型と考えられてきたこの病気は、けいれん・意識障害・血圧低下などを合併してしばしば小さなこどもの命を奪ってきました。「現在の日本ではほとんど見られなくなっている」とインターネット百科事典には書かれています。しかし実は「疫痢」は今でもなくなっていないのではないか、という説があります。赤痢菌によるものはほとんど見られなくなりましたが、乳幼児が下痢に伴ってけいれん・意識障害・血圧低下などを起こして死亡する例は「出血性ショック脳症」として発生し続けています。出血性ショック脳症と疫痢が同じ病気であるという証拠はありませんが、細菌学的診断の技術が未熟であった時代にこれらが疫痢と診断されていたことは十分に考えられます。そして重要なことは、現在では「急性脳炎・脳症」という名称で呼ばれるこれらの疾患の原因が依然として不明であり、この状況は昭和初期も今も変わっていないということです。
急性脳炎・脳症とは、インフルエンザをはじめとする感染症に伴って、けいれんや意識障害などの神経症状が現れる病気を指します。こどもに多くみられ、また日本では他の国々と比べて発症率がきわめて高いと考えられています。こどもの脳と神経の病気には様々なものがありますが、一つの例として日本小児神経学会(小児の神経学を専門とする医師や研究者からなる学術団体)の学術集会で発表された内容を見ると、どのような病気がトピックであるかわかります。そこでは、てんかん、発達障害、急性脳炎・脳症の三つの病気に関する発表が最も多くなっています。てんかんと発達障害は罹患するこどもの数が大変多い病気ですが、急性脳炎・脳症はそれほど多くありません。にもかかわらず多くの医師が発表を行うのは、この病気がいかに重大で注目すべきものであるかを物語っています。急性脳炎・脳症はしばしば重い後遺症を残し、時に死に至ることもあります。さらにこの病気に対する治療法は十分確立されたとは言えず、中には有効な治療法が全くないものもあります。
こどもの病気は、本人だけでなくその家族にも大きな影響を与えます。急性脳炎・脳症はそれまで健康だった児童が突然発症するうえに、進行が非常に早いために家族には病気を受け入れるための十分な時間がありません。さらにこの病気は感染症を契機に発症し、多くの場合その感染源は家族です。そのために家族は自分が病気にかからなければ防ぐことができたのではないかという自責の念にかられます。このように家族にあたえる精神的なダメージは、病気になったこどもの兄弟姉妹にまで深刻な影響を及ぼします。そして一命を取り留めても重い後遺症を残した場合、家族は生涯にわたり介護を続ける必要がでてきます。
私たちはこのように我が国の小児医療において重大な重荷となっている急性脳炎・脳症の原因を解明し、有効な治療法を開発するための研究を行っています。この病気を研究するにあたってはいくつかのアプローチが考えられます。一つは引き金となる感染症に着目したウイルス学的研究です。ウイルス関連急性脳症を引き起こす原因ウイルスとして最も多いのはインフルエンザウイルスであり、これらはインフルエンザ脳症としても知られています。しかし重要な点として、この病気では脳内にウイルスが侵入して起こるわけではなく、感染症はきっかけにすぎません。そこで私たちはウイルス感染症に対する免疫反応に着目しています。免疫反応は本来、病原体を排除するための防御機構として働くものですが、一部の脳炎・脳症では免疫反応が強くなりすぎたり、誤った方向に働いたりすることが原因ではないかという考え方があります。
私たちは急性脳炎・脳症の一種である難治頻回部分発作重積型急性脳炎という病気において、脳内の免疫系が異常に活性化されていることを世界で初めて明らかにしました。これが病気の直接的な原因なのかどうかはまだわかっていません。しかしこの病気は非常に難治なけいれん(てんかん)と知能障害・発達障害などの後遺症を残すことから、その研究を行うことによって脳の免疫系が脳の正常な発達やてんかん・発達障害などのこどもの脳の病気のメカニズムを解明するヒントになるのではないかと期待しています。また私たちはこの病気の研究を通じて急性脳炎・脳症の診断基準と診療ガイドラインの作成にも携わっています。
一方で、病気の原因を解明するためには、病気のことだけでなく脳と免疫系の働きそのものについても深く理解する必要があります。そこで私たちは脳の恒常性を保つために重要な役割を果たしている「グリア細胞」という細胞に注目しています。特にミクログリアと呼ばれるグリア細胞は脳内の免疫系を司ることから、ミクログリアの発達と分化、そして情報伝達の仕組みについて研究を行っています。さらにミクログリアと神経細胞がどのようにコミュニケーションをとり、それによって免疫反応がどのように神経の伝達という別の情報に翻訳されるのかについても興味を持って研究しています。これらの研究を統合することで、こどもの脳がどのようにしてバランスを保ちながら発達し、その揺らぎがどのようにして病気を引き起こすかを明らかにすることができると信じています。