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Jul. 2016 No.022
哺乳類遺伝プロジェクトリーダー吉川 欣亮
マウスは医学研究分野で最も広く用いられている実験動物で、哺乳動物の生命現象を解き明かすために重要な役割を担っています。特に、長期にわたる遺伝学研究によって開発・蓄積されてきた「ヒト疾患モデルマウス」は、私たち人間の病気の発症メカニズムを解明するための有用なモデル動物となっています。図1にはマウスの遺伝学的研究の大きな二つの柱(手法)を示しました。一つはメンデルの古典的な遺伝学を基礎として発展した「順遺伝学」であります。この方法は、ヒト疾患モデルマウスのもつ表現型(病態·形質)を出発点として遺伝子へとたどり着く手法です。これまでの医学研究では、様々なヒト疾患モデルマウスの表現型発症の原因遺伝子が解明され、未知のヒト疾患原因遺伝子の発見に大きく貢献してきました。もう一つの柱は「逆遺伝学」です。逆遺伝学は順遺伝学とは逆のアプローチであり、遺伝子を人為的に操作することによって出現した表現型から遺伝子機能を解明する手法であります。私たちのプロジェクトではこの両手法を駆使して人間の病気の分子生物学的な解明を目的に研究を進めています。
マウス遺伝学の手法を駆使し、私たちが最も興味をもって取り組んでいるのは遺伝性難聴の研究です。我国の難聴患者数は、身体障害者福祉法の定義に含まれる患者数だけでも30 万人を越え、1)新生児難聴者は約1,000 人に1人と高い割合で確認されています。2)加えまして、人間は年齢を重ねると身体の様々な組織・細胞で「老化」という現象が起こってきますが、聴覚で機能する組織・細胞も同様で、70 歳以上の高齢者では約70% が聴覚に何らかの異常をもっているといわれています。3)また、聴覚の異常は騒 音、耳毒性薬物、他の病気など外的要因が引き金となって発症するケースも多いですが、半数は遺伝性であると推定されています。2 · 3)
ここで私たちがどのように音を認識するかについて簡単に説明します。一般的にいわれる「音」は機械的刺激です。この刺激は図2A に示したように耳介から体内に入り、外耳道を通り鼓膜を振動させ、耳小骨を伝わって内耳に侵入し、聴覚中枢へ伝えられ音として認識されます。すなわ ち、この過程に登場するすべての組織・細胞は音を聞くために必須なものとなっています。その重要な細胞群の中でも実際に「音を聞く細胞」と考えられているのが内耳の「有毛細胞」です。内耳は脳に音を伝えるため、機械的刺激である音を電気信号へ変換するという重要な役割がありま すが、その役割を担う主役が有毛細胞です(図2B)。有毛細胞はその名の通り頂上部に感覚毛(Stereocilia)をもつ特殊な細胞で(図2C)、この感覚毛が音刺激のセンサーとなり細胞体で電気信号へと変換しています。
図2.音の伝達経路と「音を聞く細胞、内耳有毛細胞」
A.音の伝達経路の器官。聴覚器官は主に外耳(耳介、外耳道)、中耳(鼓膜、耳小骨)および内耳(蝸牛、半規管)に分かれている。内耳の半規管は平衡感覚をつかさどる器官であり、蝸牛が音を受容し、変換する役割をもつ(イラスト:若槻恵美子基盤研究職員)。B.有毛細胞の模式図。頂部に感覚毛を有する。C.マウスの正常な感覚毛の電子顕微鏡像。
音を聞く細胞である有毛細胞に異常が生じると、当然のことながら人間は音の聞こえ方に支障をきたすことになります。しかし、人間で有毛細胞の研究をすることは、直接的な細胞の観察、細胞の採取が困難であり不可能です。そこで用いるのが有毛細胞に発現(存在)する遺伝子に傷(変異)をもつ難聴モデルマウスです。ヒトとマウスの間では、有毛細胞の形態、役割、そして働いている遺伝子が非常によく保たれています。つまり、順遺伝学の手法によって有毛細胞異常を示すモデルマウスの発症原因遺伝子をつきとめることはヒトの難聴の原因遺伝子を明らかにすることにつながり、一方でマウスの有毛細胞に発現している遺伝子を逆遺伝子の手法によって改変しマウスの細胞形態を調べることで、ヒトの病態を理解し、さらに難聴原因遺伝子の役割を理解することができます。図3 は、私たちが遺伝学の手法によって樹立した二つの異なるヒト遺伝子に変異をもつ難聴モデルマウスの有毛細胞の感覚毛の電子顕微鏡写真を示しています。左の図(A)の有毛細胞は感覚毛が非常に短いことがわかります。つまりこの原因遺伝子に異常が生じると感覚毛が成長途中で停止することが理解でき、この難聴原因遺伝子には感覚毛を成長させる役割があることを推定することができます。一方、右の図(B)の感覚毛は、それらが融合しています。したがって、この原因遺伝子には一本一本の感覚毛を分離・形成させ、維持する役割があることが考えられます。このような研究はヒトでは実質不可能な研究であり、モデルマウスの遺伝学的研究が人間の難聴研究にいかに重要であることを示す実験データであります。
図3.異なる2種のヒト難聴原因遺伝子に変異をもつ難聴モデルマウスにみられる有毛細胞の感覚毛形態の異常。A.遺伝子変異により未発達の感覚毛。B.遺伝子変異により融合した感覚毛。
今回は私たちの研究のすべてを紹介することはできませんでしたが、モデルマウスの難聴研究での重要性を少しでもご理解頂けたら幸いです。今後、難聴モデルマウスおよびその研究から得られる知見は、今後の難聴の早期診断、発症後の治療法および治療薬の開発により有用になると思われます。私たちは今後も難聴患者の医療へ貢献できる多くの実験データを提供するために現在の研究をさらに発展させていきます。