Oct. 2018 No.031
副所長・病院等連携研究センター長糸川 昌成
忘れられない光景がある。いまから30年ほど前、大学病院で1年半の初期研修を終え、福島県の精神科病院の常勤医になったときのことである。例年は温暖で雪が少ない福島県の浜通りに、その年は珍しく大雪が降った。降りしきる牡丹雪の中を、若い女性が夫に伴われて外来へ来られた。診察すれば症状は重く、うつむいた表情からは苦悩に耐えている様子が伺いしれた。私が入院を勧めるとお二人とも同意され、しばらくすると迎えに来た病棟看護師に連れられて彼女は診察室を出て行かれた。
統合失調症の診たてと今後の見通しなどについて夫に説明し、彼からのいくつかの質問に答えたので診察を終えようとしたときのことだった。父親の後ろに隠れるようにして立っていた幼い男の子と目があったのだ。大人の会話を十分には理解できなくとも、ただごとではないと感じていたようだ。私は診察椅子を立つと彼のもとにしゃがみ、覗き込むようにして伝えた。「君のお母さんはとても疲れている。少し頑張りすぎて病気になったんだ。病院でお休みすれば必ず元気になって、君のおうちに戻ってくるからね」。男の子はさらに父親の背後へ隠れてしまった。
彼女の入院治療は私が担当し、3か月ほどで回復すると退院された。その後は、私の外来へ通院され治療を続けた。入院時に気付いたことだが、彼女は私と同い年で 驚いたことに誕生日も9日しか違わなかったのだ。そんな二人が診察机を挟んで向かい合っていることに、痛みのような哀しさを感じずにはいられなかった。1年ほどして私は大学の基礎研究室へ異動が決まり、最後の外来診察で握手を交わして彼女と別れた。
そして、25年が過ぎた2011年3月11日、東日本大震災が発生した。かつて勤めた福島の病院は、原発事故の影響で6人いた常勤医が2人にまで減り、患者さんたちが危機的状況に陥った。以前に勤めた経験のある医師たちが交代で支援に通い、私も月1回、土日を利用して支援を始めたときのことだ。そこで、25年ぶりに彼女と再会したのだ。病棟の廊下ですれ違う時、お互いすぐに気付いて「あっ!」と声を上げると走り寄り、手を取り合うようにして近くの長椅子に並んで腰かけた。私が異動したあと間もなくして再発し入退院を繰り返すうちに夫とも別れ、子供たちは夫に引き取られたという。
私はといえば、この25年で結婚し子供が3人生まれ留学して自分の研究室をもち、いろいろな経験を積み、さまざまな人と出会っている。この同じ年月を私と同い年のこの女性が孤独な入院生活を余儀なくされていた事実に、胸がつまるような傷みを感じた。そのとき「面会ですよ」と看護師さんが彼女に声をかけた。あのときの小さかった男の子が、30歳になって母親に会いに来ていたのだ。子供たちは父親に引き取られた後も、定期的に面会を続けていたという。彼女のベッドサイドをみれば、母の日の贈り物や孫たちの写真がたくさん飾られているではないか。私は固く握っていた拳の力が、少しずつ抜けゆくのを感じた。あの雪明りに照らし出された診察室の静寂を、今でもときどき思いかえすことがある。
私は分子生物学というミクロの科学を駆使して、心の病気の原因解明に挑む科学者である。いっぽうで、医師免許を得てからの30年、あるときは当直や外来診療に非常勤医として従事し、あるときは病院で常勤医として働いて、留学中の3年を除けば一貫して臨床現場と関わり続けてきた。
病棟と実験室のはざまを行きつ戻りつした30年を振り返ってみれば、そこには臨床医がみた独特なサイエンスの風景がひろがっていた。あるいは反対に、科学者にしか見えてこないような臨床現場の光景が展開していたのかもしれない。だからこそ、世界で初めて心の不調と関連するDNAを発見し(Lancet 1994)*1、誰も考えつかなかった病気のメカニズムとも出会い(Arch Gen Psychiat. 2010)*2、精神科で未承認薬を用いた国内初となる医師主導治験にも携わることができたのだ(Psychiatry Clin Neurosci. 2018)*3。つまり、基礎研究と臨床医学が連携するとき、そのどちらか片方だけでは決して見ることができない発見との出会いがかなえられるのだ。
2014年4月、都医学研の研究成果を病院現場と結ぶ支援部門として、病院等連携研究センター(以下、連携センター)が発足した。連携センターでは、臨床医と研究者がマッチングする機会を提供するために、多摩キャンパスメディカルフォーラム(写真)、駒込病院リサーチカンファレンスなどの研究交流会を主催している。実は2014年の連携センター発足以前から、都立病院連携研究という病院と研究所の共同研究を支援する枠組みは存在していた。しかし、それらは研究所が主体の共同研究や、病院の医師がたまたま研究員を知っていたから始まった研究などが多く含まれた。つまり、研究所内につてを持たない大多数の医師にとってみれば、都立病院連携研究は縁遠い存在でしかなかったのだ。そこで、2016年から1年かけて病院連携研究を見直し、病院の医師が主体的にかかわる研究を中心的に支援する枠組みへと刷新した。さらに、医師が解明してみたいアイデアを50万円までは研究所が負担し、研究員とマッチングを図って共同研究をスタートさせる新たな支援も始めたのだ。2018年8月現在で、この新支援策によって公社病院と都医学研が全く新たに始めた共同研究が2件、応募およびマッチングまで成立した研究が4件走り始めている。医師と研究員はこの支援で初めて出会った協力関係であり、まさにどちらか片方だけでは成し得なかった病気の解明研究が、新支援体制によってスタートできたのだ。
多摩キャンパスメディカルフォーラム
都医学研は病院のみならず、大学とも連携している。2018年8月現在、11大学と連携大学院協定を締結しており(表)、のべ23名の研究員が大学の客員教授など連携教官に就任している。連携教官は大学院の教育研究活動の充実を図り、大学と都医学研の研究交流を後押ししている。さらに、連携教官の研究指導は大学のみならず都医学研においても行えるため、学生は研究所内で実習と教育・研究指導を受けることができる。現在、15名の大学院前期(修士)、8名の後期(博士)課程の学生(2018年8月現在)が都医学研内で大学院研究に取り組んでいる。なお、この制度はマッチングする連携教官がみつかれば、都立病院等の医師も活用できる。すなわち、病院勤務と学位取得の両立にも道を開いているのだ。
また、都医学研は次世代の科学を担う人材育成にも連携のすそ野を広げている。たとえば、都教育委員会から進学指導重点校の指定をうける都立戸山高校では、医学部進学を希望する生徒に、医師を目指す心構えを育てるキャリア教育『チームメディカル』を2016年度から始めた。都医学研は『チームメディカル』を対象に、戸山高校への出前講義や生徒の研究所見学を受け入れている。見学は通年で都内外の中学・高校からも広く受け入れており、見学者数は2018年4~7月だけで255名にものぼる。こうした見学者のなかから、昨年度は連携大学院への進学希望者も出始めた。未来の科学者が、都医学研のこうした取り組みから誕生する日もそう遠くはないだろう。
都医学研がさまざまな連携を通じて、それぞれ単体では発揮し得なかった新たな発展を成し遂げているのは、本業である基礎研究で抜群の成果をあげているからである。それは、世界トップクラスの研究成果のデータベース(Nature index)*4で、都医学研が日本の生命科学分野で1位にランクインした事実(2018年)からも理解できよう。臨床でも基礎研究でも、発展・発見を成し遂げるうえで大切なことは、基本に立ち返る姿勢にある。なぜならば、発見は会議室や教科書ではなく、実験室かベッドサイドでしか生まれないからだ。私にとっての基本とは紛れもない、30年前に見た雪明りに照らされたあの診察室に他ならないのだ。
医学研と連携大学院協定を締結した大学一覧 (2018年8月現在) |
---|
東京医科歯科大学 大学院 医歯学総合研究科 |
新潟大学 大学院 医歯学総合研究科 |
首都大学東京 大学院 理学研究科 |
東京大学 大学院 新領域創成科学研究科 |
お茶の水女子大学 大学院 人間文化創成科学研究科 |
東邦大学 大学院 理学研究科 |
日本大学 大学院 総合基礎科学研究科 |
東京理科大学 大学院 理工学研究科 |
筑波大学 大学院 生命環境科学研究科 |
筑波大学 大学院 人間総合科学研究科 |
徳島大学 医学部 大学院 栄養生命科学教育部 |
明治薬科大学 大学院 薬学研究科 |
Nature Indexは、主要科学ジャーナル誌に掲載された論文の著者所属情報を収録するデータベースで、それらの論文における世界の研究機関の貢献度を集計しています。当研究所は、日本国内ライフサイエンスの分野で1位をいただきました。
※ 平成30年4月より、糸川昌成参事研究員は副所長及び病院等連携研究センター長を兼務しています。