Jan. 2023 No.048
副所長糸川 昌成
5‐6年も前だったろうか。お隣の松沢病院で、研究者を囲む懇談会を定期的に開いたことがある。夕方、研修医達に集まってもらい、レジュメもない気軽な雑談会を工夫した。ある回に長谷川先生をお招きした。研究所からプロの科学者が来る。彼らにとって、初めて聞く研究の世界に目が輝いていた。どういう流れだったか、セレンディピティ(偶然のひらめき)の話になり、先生はふたつの偶然について話された。
ひとつめは大学院生の実験の話だった。蛋白質(タウやTDP-43など)が脳細胞の中にたまって細胞を壊すから認知症になる。先生は試験管で細胞を壊す実験をしていたがうまくいかないでいた。蛋白質を細胞へ入れる技術が未熟だった頃の話だ。ところが、大学院生がたまたま試薬を使って蛋白質を細胞の中へ導入してしまったのだ。通常その試薬は、遺伝子を細胞へ導入するときに使うもので、遺伝子の何百倍も大きな蛋白質など、誰も導入できるとは思いつかない。経験不足な分だけ大胆な発想を思いつく、大学院生ならではのビギナーズラックだったわけだ。
ふたつめの偶然は、長谷川先生が東大で学生に講義をしているときに起きた。認知症の原因蛋白(タウ)が脳のごく一部にとどまっているステージIから、脳全体に広がったステージIVまで分類するブラークステージを講義で紹介した。ここで、ある学生さんが素朴な質問をしたのだ。どうやって、病変は広がるのですかと。ブラークステージは病変の広がりが認知症の重症度と相関することを示したに過ぎず、ステージ進行のメカニズムは示していない。長谷川先生は、この学生さんの質問を聞いてはっとしたのだ。大学院生の珍実験を思い出したからだ。タウは細胞に出たり入ったりする。最初は脳の一部だった病変から、タウが隣りの細胞へと伝搬している。たったひとつの癌細胞が増殖転移して全身へ広がるように、タウが細胞を自由に出入りして脳全体に広まり認知症になるメカニズムを発明したのだ。
偶然や失敗が大発見を導く逸話を、よくノーベル賞の報道で目にすることがある。あのときの研修医達の眩しそうなまなざしの先には、ストックホルムで祝福を受ける長谷川先生の未来が見えていたようだった。