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特集

今、脂質が面白い

東京都医学総合研究所 脂質代謝プロジェクトリーダー村上 誠

村上 誠

「脂質」は、いうまでもなくタンパク質・核酸・糖質と並ぶ生体に必須の成分です。 脂質は生体膜の基本構成要素であり、栄養素の中で最大のエネルギー源であり、またシグナル分子として多彩な役割を担う生体分子です。 したがって、脂質分子の多様性や生理機能を理解することは、生命の秩序と原理を知る上で極めて重要といえます。 しかしながら、我が国の脂質研究の現状はどうかというと、今年度の日本生化学会の全144シンポジウムのうち、純粋に脂質にフォーカスを充てたものはわずかに4つ(全体の3%)でした。 勿論、網羅的解析を求められる現在の生命科学研究において、脂質を取り扱っている研究は年々増えていますが、脂質そのものを中核に添えた研究の割合はこの程度であり、この現状は昨今あまり変わっていません。 脂質は水に溶けにくい、ゲノムに直接コードされない、不安定である、解析方法が特殊であるなどの理由から、科学技術が進歩した現在でも手を出しにくい研究対象なのでしょう。

脂質は核酸と並ぶ根源的な生体物質です。 脂質膜ができて、初めて細胞形態が成り立ちます。 しかしながら、両者の研究進展には大きな違いがあります。 遺伝子については、ヒトゲノム計画の前後から今日に至るまで、増幅法、配列決定法、発現解析法の技術革新が次々と起こり、研究手法が一般化され、今ではキットを使って研究初心者でも測定ができます。 遺伝情報がわかればタンパク質情報もわかります。 多くの生物のゲノム配列が解明され、その情報をもとに有益なタンパク質を大量発現し利用することが可能となり、いわば生物が持つ遺伝子は資源として活用されています。 一方、脂質に関しては、一部の生命科学研究者が、それぞれの経験に基づいた職人芸を駆使して、各論的に課題に対峙してきた歴史があります。 このことが、脂質機能の多くが未解明のまま残されている一因となっています。 近年のメタボローム解析技術の進歩は脂質研究領域にも大きなインパクトを与えました。 質量分析の技術革命により、これまで解析されてきた脂質分子は氷山の一角に過ぎず、生体内にはゲノムの数をはるかに凌ぐ種類の脂質が存在することがわかってきました。 すなわち脂質は、遺伝子、タンパク質に比肩するバイオリソースであり、未知の魅力を秘めた生体物質なのです。

アルツハイマー病は記憶に関わる海馬や、感覚情報等を整理・統合して高次の判断を行う大脳皮質連合野の神経細胞が徐々に死んでいく病気で、神経細胞の中にタウと呼ばれるタンパク質が蓄積する異常を伴います。

脂質というと、どうしても一般の方にはエネルギー源・生体膜成分と捉えられがちですが、生理活性脂質=脂質メディエーターとしての役割も非常に重要です。 脂質メディエーターとは、生体内で合成される脂質分子のうち特定の代謝経路を通じて生合成され、細胞外に放出され、特異的受容体を介して比較的低濃度で生理活性を示し、速やかに不活性化されるものを指します。 代表的な脂質メディエーターとしては、脂肪酸の一種であるアラキドン酸から生合成されるプロスタグランジン (PG) やロイコトリエン (LT) が挙げられます。 医療の分野でよく利用されているアスピリンやインドメタシンなどの非ステロイド性抗炎症薬 (いわゆる痛み止めや熱冷まし) は、PG生合成の律速酵素であるシクロオキシゲナーゼを阻害することで、解熱、鎮痛、抗炎症、抗血栓などの薬効を示します。 PG製剤は分娩促進薬として産科で汎用されています。また、モンテルカスト(抗喘息薬)やフィンゴリモイド(抗多発性硬化症薬)といった新薬は、脂質メディエーター受容体を標的とした我が国発の製剤です。 魚類や海獣を主食とするエスキモーの疫学調査に代表されるように、食餌として摂取する脂質の質はQOLに大きく影響します。 日本人が世界的に長寿を誇る原因のひとつは、魚貝類を生食する(=未加工の魚油を摂取する)食習慣によるところが大きいことは今や疑いようがありません。 これらの例を見ても、脂質研究は新たな医薬や機能性食品の創成、健康福祉に役立つことが期待されます。

我が国の脂質研究は生命科学に大きく貢献してきました。 PGやLTの生合成に関わる代謝酵素や受容体の殆どは日本人研究者の手によって単離同定され、また欠損マウスが作出されました。 PG、LTを第一世代の脂質メディエーターとすると、第二世代の脂質メディエーターとしてリゾリン脂質(PAF、LPAなど)が登場しました。 ここでも日本人研究者の貢献は非常に大きく、この夏にはリゾリン脂質を主題として、世界的な国際学術会議FASEB Summer Research Conferencesが北海道のニセコで開催されました。 そもそも米国が母体のFASEB国際会議が他の国で開催されることは稀なので、このことからも我が国から発する脂質研究が世界的に注目されていることが伺えます。 時代は更に第三世代の脂質メディエーターへとシフトしています。 第三世代とは、先に触れた魚油の成分、言い換えれば「体に優しい」脂質であるエイコサペンタエン酸(EPA)やドコサヘキサエン酸(DHA)から生合成される新しいタイプの脂質メディエーターを指し、これらは強力な抗炎症作用を示します。 このクラスの脂質メディエーターは組織中に微量にしか存在しないものが多く、その同定には、脂質に照準を合わせた高感度メタボローム(リピドミクス)解析が大きな威力を発揮しています。 更に最近では、受容体の脱オーファン化プロジェクトにより新しい脂質リガンドが続々と同定され、またこれまで脂質メディエーターのカテゴリーには含まれていなかった常在性の脂質をリガンドとする受容体も見つかっています。 質量顕微鏡により組織中の微量脂質の局在を調べることも可能になりました。 従来、生化学の範疇に留まっていた脂質研究は、分子生物学やメタボローム解析技術との融合により、ますます広がりを見せています。

PLA2分子群と脂質メディエーター経路


さて、ここから私自身の研究について手短に紹介します。 私は研究の世界に足を踏み入れてから20年余、ホスホリパーゼA2 (PLA2) という酵素を中心に研究を行ってきました。 PLA2は膜リン脂質から脂肪酸とリゾリン脂質を遊離する酵素の一群で、脂質メディエーター産生の初発反応を制御する酵素と位置づけられます。 PLA2には細胞内と細胞外に合わせて30以上の分子種が存在します。 なぜこれ程多くの分子種が存在するのか、それぞれの分子種はどのようなリン脂質を分解し、どのような代謝物を生み出すのか、そして如何なる生命現象に関わっているのかを明らかにし、疾患に固有の脂質代謝マップを創成することが、私の研究グループの目標です。 狭い研究分野の中での話ですが、10年程前に私が当研究所に異動した当時は細胞質PLA2(cPLA2α)が全盛を誇り、この酵素だけで脂ディエーターの全てが説明できると認識(誤認)されていた時期でした。 確かに、cPLA2αはCa2+とリン酸化により活性が制御され、アラキドン酸に特異性を持ち、その欠損マウスはPGやLTの既存の機能で説明できる表現型を示すことから、注目を集めて当然です。 殆どのPLA2研究者の関心がこの酵素に向けられている中で、私は機能が全く不明であった「細胞外に分泌されるPLA2 (sPLA2)」 の研究テーマだけを背負い込んで前所属から当研究所に赴任したわけですが、正直、貧乏くじを引かされた感じで前途多難、暗澹たる気持での船出でした(今となっては幸運でしたが)。

この後、当研究所においてsPLA2分子群の遺伝子改変マウスを次々と作出導入していくことになるのですが、そこから出て来る成果はまさに驚きと興奮の連続で、「目から鱗」とはまさにこのことです。 従来の脂質メディエーターの概念からは想像もつかない表現型が次々と出てくるのです。 最初に作出したマウスは出生後すぐに呼吸困難で死亡しました。次に作出したマウスは、当初は動脈硬化を念頭に特殊飼料を与えたのですが、思いがけず肥満化したマウスを見て目が点になりました。 次のマウスは完全に脱毛。 その次には精子運動異常のため雄性不妊となるマウスが現れました。 脂質が肥満や皮膚や生殖に影響を及ぼすことは知られていましたが、我々が直面した表現型は、これまでに脂質メディエーター研究領域では報告例がないものばかりでした。 その後も続々と、いい意味で「期待はずれ」のマウスが誕生しています。 その表現型は、免疫、代謝、循環器、皮膚、生殖、神経、癌など多岐に渡ります。このうち、最近論文発表した2つの話題が本ニュースレターのホットトピックスに掲載されていますので、詳細はそちらをご参照下さい。いずれも、欠損マウスの表現型を切り口にリピドミクスを展開し、sPLA2を起点とした新しい脂質ネットワークを同定したものです。 想定外の連続に、今では既存概念を前提として解析に着手することは控えています。眼前に出現した予期せぬ表現型が全てのスタートです。 想定外だからこそ、新しい脂質マシナリーの発見につながるのです。 私の研究室には現在、多数の細胞内外のPLA2群の過剰発現・欠損マウスに加えて、国内各地の研究者から提供いただいた下流の代謝酵素、受容体の欠損マウスのラインナップがほぼ揃っています。 これにより、脂質メディエーターの合成・代謝・受容のフローを同一土俵上で総合的に比較解析することが可能となります。 代謝物を捉えるために独自に導入したリピドミクス用の質量分析機は、24時間フル稼働しています。 我々の研究は世界のPLA2研究のハブへと階段を昇りつつあります。 PLA2群の遺伝子改変マウスは、疾患に固有の未知の脂質代謝経路を同定し、新しいバイオマーカーや創薬標的を探索するための「宝の山」です。将来的には、この宝の山から酵素あるいは脂質代謝物を標的とした新規創薬へのシーズを発掘していきたいと考えています。

末尾になりますが、今年の11月28日に都医学研シンポジウム「脂質シグナリングの最前線:今、脂質が面白い」を開催します。 我が国精鋭の脂質研究者数名をお招きし、脂質シグナル研究の最前線をアピールする場としたいと考えております。 お時間のある方は、是非ご来場下さい。

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