HOME広報活動刊行物 > January 2015 No.016

研究紹介

東京都立神経病院発の運動障害を可視化するシステムと再生医療への貢献の夢

運動失調プロジェクトリーダー筧 慎治
主席研究員李 鍾昊

私達は、脳卒中、パーキンソン病、脊髄小脳変性症等の神経疾患における脳内の複雑な病態を全く新しい方法で分析し、神経疾患の治療やリハビリや治療を抜本的に革新するための「神経疾患治療ナビゲーター」というシステムを開発中です。このシステムは東京都立神経病院との長年の共同研究の産物であり、開発の背景と今後の発展?夢について紹介させていただきます。

再生医療の曙

たいていの方が、子供の頃に転んで膝をすりむいた経験があるでしょう。大人になっても、包丁やナイフでうっかり指先を切ることは時々あることです。これらの皮膚の傷では、傷んだ細胞が除去され、一週間もあれば新しい細胞で置き換えられてしまいます。再生です。ところが脳の障害では、こうはいきません。例えば脳卒中、パーキンソン病などの脳の病気では、脳の細胞が様々な原因で失われ、回路の動作に変調を来し、身体を動かす脳の仕組みに障害が現れます。脳卒中ではリハビリテーションにより、ある程度の回復が見込めます。パーキンソン病では薬による補充療法が有効です。しかしいずれも、失われた神経細胞が皮膚の傷のように自然修復して治癒に至ることは期待できません。残念ながら、脳は私達のからだの中で最も再生能の低い器官の一つだからです。

そんな中、テレビや新聞の報道でご存知の方も多いと思いますが、iPS細胞を利用した再生医療を難病の治療に適用する臨床研究が昨年理化学研究所で始まりました。最初に加齢黄斑変性における視機能の低下に対する治療が行われ、現在それに続く見込みなのが、パーキンソン病に対する細胞移植治療です。現状では、来たるべき最先端治療の評価は、古典的な神経学的診断法を中心に行われると予想されます。治療技術の進歩が、診断・評価の技術の進歩を完全に抜き去った状況です。本来、新しい治療法は病態評価の革新を伴うものであり、現状は理想的とは言えません。そこには突然のiPS細胞革命という特殊要因もありますが、もう一つ神経疾患の特殊な事情があります。

神経疾患は現時点でもその多くは根治的治療が困難です。この神経疾患の診断・評価に最も力を発揮しているのが、神経学的診断法です。これは、多くの神経学者による不断の改良が積み重ねられてきた体系であり、その主要部分は遅くとも100年前には確立し、その後大きく変わっていません。その主な理由は:1)この診断法が歴史的な名医達の経験と思索を凝縮した極めて完成度の高い診断手技であること,2)根治的治療が行えない状況では、診断後の患者さんに更なる負担を強いて追加の評価を行う動機に乏しかったこと,3)脳機能の解明が遅れていること,の3つです。脳機能の研究者として3)には忸怩たるものがありますが事実ですし、仕組みが理解出来なければ修理が難しいのは仕方がありません。このような状況では、病名(障害部位)の特定に極めて有効な神経学的診断法で十分だったわけです。新たな評価方法が望まれる環境が整っていなかったと言えます。


都立神経病院との連携

今から10年ほど前に、私が東京都神経科学総合研究所(H23年度に移転改組により公益財団法人東京都医学総合研究所に統合)に着任したとき、まだヒトのiPS細胞は存在せず、ES細胞を用いた実験的再生医療が世界的に模索されていました。私自身は脳のネットワークの働きを研究するシステム神経生理学の研究者であり、再生医療も神経疾患の臨床も素人です。しかし、将来夢の治療が実現されるとき、神経疾患の病態評価が現状のままではいけないという予感がありました。そして新しい評価方法の確立に、自分の研究を役立てられないかと考えました。幸い私の問題意識は孤立したものではなく、臨床にも同じ考えの方がおられました。お隣にあった東京都立神経病院・脳神経内科部長(当時)の鏡原康裕先生もそんな同志の一人でした。意気投合した私達は、新しい時代の夢の治療法出現に備えて、脳の身体を動かす機能の新しい評価方法を開発する共同研究を立ち上げました。幸い、研究所と神経病院とは数多くの共同研究の実績があり、このような共同研究が当たり前に行える土壌が出来上がっていました。さらに研究所と神経病院から「都立病院等連携研究」としてのサポートをいただき、鏡原先生、東工大から来た李鍾昊研究員、そして私の3人による共同研究が始まりました。神経病院3階の「キネシオロジー室(kinesiology:運動学)」という、患者さんの身体の動きを検査するための部屋の一角に計測機材(図1)を持ち込み、毎週水曜午後の研究が始まりました。

図1:計測システムの概要

図1:計測システムの概要

被験者は、「マニピュランダム」と呼ばれる機械装置を手首で操作し、コンピュータ画面上のカーソルの位置をコントロールする。マニピュランダムで計測される手首の動きを分析して、図2に示すような情報を抽出する。

スタートの時点で、私達は目標を立てました。①脳の運動を司る部分の機能を定量的に分析出来るシステム;②痛くないシステム;③簡便で患者さんの負担が少ないシステム;この3つです。②と③は計測を反復して行うために必須です。患者さんに我慢や努力を強いるような計測では、繰り返し行えないため、病態の変化を長期に追跡する目的には使えません。①は少々説明が必要です。「脳の運動を司る部分」といっても、具体的な場所が知られているわけではありません。そこで「予測」と「修正」という、人間の身体を動かす仕組みの根幹にある(その存在が確信できる)2つの成分を、患者さんの動きの中から探し出す方針を決めました。また被験者の行う運動課題は、運動障害の患者さんや高齢者を前提に、ゆっくりとした目標追跡運動を採用しましたが、このゆっくりとした動きが目標達成の鍵でした。


「運動障害の見える化」を目指して

その後の予測と修正の分離に至る数年間の試行錯誤を手短にまとめます。私達は、多数の患者さんと研究所のボランティアの方々のご協力のおかげで、運動制御の予測と修正の成分を抽出・評価する世界初の分析システムを開発することができました(図2)。この図は人間が意図した動きを行うときの脳の働きを模式化したものです。左端の「意図した動き」が「予測」のモジュールに入り、予測制御の運動指令が「身体」に出力されます。この予測的運動指令による「実際の動き」の感覚情報がすぐに脳に送られ、「意図した動き」と「比較」されます。意図したように動かすことができず、両者の間に食い違いがあれば、その誤差が「修正」のモジュールに送られ、修正(フィードバック)の運動指令が「身体」に出力されます。実際の予測と修正は同時に働き、身体の動きになる前に足し合わされてしまうため、肉眼での分析は不可能です。ところがこのシステムでは、目標が非常にゆっくりと動くため、それを予測する動きも低周波になります。一方、修正の動きは素早く行われるため高周波になり、その結果2つの成分が異なる周波数に分かれます。異なる周波数の成分はフーリエ変換と呼ばれる数学的な技術で容易に分離できるため、この技術を利用するアイディアによって、それまで誰にも実現できなかった予測と修正の分離・分析が可能になりました。このシステムに関連して、これまでに国内特許2件、米国特許2件を取得することが出来ました。

図2:運動制御の予測と修正の分離

図2:運動制御の予測と修正の分離

予測と修正の動きは、脳の中で別々に作られているが、身体の動きとして現れる前に足し合わされるため、単独の成分を見ることはできない。このシステムでは2つの成分を低周波と高周波に振り分けるような運動を行うため、数学的方法で分離が可能になった。

次に、この分析がどのように「ナビゲーター」に結びつくのかを説明します。患者さんの動きから予測と修正の2成分を分離し、各成分の正確さ(仮に)XとYを計算すれば、その時の患者さんの脳機能を評価する2つの指標の組(X,Y)が得られます。ご存じの様にこの様な数字の組は、2次元の座標とみなせます。この座標が、患者さんの脳機能の病態を反映して動きます。検査を繰り返し行い、患者さんの「病態座標」を次々にプロットすると、患者さんの病態変化を表すグラフが得られます(図3)。疾患毎に多くの患者さんで「履歴」を蓄積し、地図上の「道」として書き込んでおけば、新しい患者さんの地図上の位置により、今後どの様な病態の変化を取る確率が高いか予測が可能になると期待されます。これが「神経疾患治療ナビゲーター」のコンセプトです。

図3:神経疾患治療ナビゲーターのイメージ

図3:神経疾患治療ナビゲーターのイメージ

図2のシステムで得られる運動制御の2つの指標を、患者さんの病態指標として利用し、治療開始から治療目標に向かってガイドする。

「ナビゲーター」の現状は、まだまだプロトタイプの段階であり、本格的に再生医療のお役に立てる力はありません。これから脳卒中、パーキンソン病、脊髄小脳変性症等で多数の患者さんからデータを蓄積し、それぞれの「地図」となるデータベースを作成する、学問的にも実用的にも腕力を要する課題が待ち構えています。しかしこの共同研究を始めた当時は「夢」であったシステムが、実現に向けて前進してきたことも事実です。様々な神経疾患の再生医療が本格的に実用化されるには、もう少し時間がかかりそうですので、10年後の再生医療への貢献を目指して開発を進めていきたいと思います。幸い、東京都立神経病院長の磯﨑英治先生、新井信隆・副所長、石塚典夫・病院等連携研究センター長、林雅晴・こどもの脳プロジェクトリーダーのご高配により、神経病院のグループと新しい研究課題に取り組めることになり、現在その手続きを進めております。最後に、この場をお借りして、これまで私達の研究をご支援下さった本当に多数の関係者の皆様に深く御礼申し上げます。

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