Apr. 2020 No.037
理事長田中 啓二
令和2年度が4月から始まります。大小を問わず研究所を含めてあらゆる組織は時代の動向に合わせて、適宜、改革することがその存続・発展に不可欠であります。医学研は本年から第4期プロジェクト研究がスタートしますが、既存プロジェクトや研究分野の再編、「ゲノム医学研究センター」と「社会健康医学研究センター」の創設、二つの新規プロジェクトリーダーの募集など大きく変貌します。その詳細は、正井所長が年頭所感で言及されていますので割愛しますが、“ 新しい酒は新しい革袋に盛れ”(新約聖書「マタイによる福音書」)と古の時代の至言にもありますように、組織の発展には世代交代を企図した新陳代謝が不可欠です。医学研は新しい執行体制を確立、生命科学の基礎研究から都民の健康福祉の向上に資する臨床医科学研究などを積極的に推進しており、今後の益々の発展が期待されます。日々の運営について要らざる斟酌は無用と思いますが、私は理事長として研究所の根幹にかかわる事柄については助言を惜しまず現執行部に協力して医学研の発展に貢献して参りたいと思っています。関係各位の皆様には、今後ともご支援ご鞭撻の程よろしくお願い致します。
本原稿を執筆中に新型肺炎(COVID-19)が中国から韓国・欧州・米国と世界中に蔓延しつつあり、マスメディアの連日の報道から日本国内においても日常生活に危機感が溢れています。このCOVID-19 は2003 年中国の広東省を起源とした重症な非定型性肺炎である重症急性呼吸器症候群(SARS)や2012 年中東諸国から世界的規模に拡大した中東呼吸器症候群(MERS)と同様、コロナウイルスが引き起こす感染症です。新型肺炎ウイルスは遺伝子情報(塩基配列は82% 相同)から系統樹を作成すれば、SARSウイルスの仲間であることは一目瞭然であり、原因ウイルス名が国際ウイルス分類委員会にて「SARS-CoV-2」と命名されたのも頷けます。新型肺炎が最初に発生した中国武漢や一人の新型肺炎患者が乗船した大型クルーズ船内での急激な感染拡大の影響を受けて、国内外の集会・会議やスポーツを含む各種イベントが軒並み中止に追い込まれています。過度に危機感を煽るのも如何かと思いますが、このSARS-CoV-2 ウイルスは閉ざされた空間での濃厚接触による感染が未曾有に増大しており、今後、中国以外でも爆発的な感染拡大が発生しないか懸念されるところです。しかし効果的な治療薬やワクチンなどの予防薬がない現状では、感染リスクを高める活動の自粛と個々人が健康に留意して免疫力を高める以外に感染の流行を阻止する有効な手段はないようです。この感染症対策に直截的に介入できないことは、生命医科学に携わる研究者として言いようのない無力感に苛まれますが、医学研も手を拱いているわけではありません。当研究所には二つのウイルス研究プロジェクト部門があり、これまでに肝炎、SARS、手足口病、デング熱、インフルエンザなどに対する多様なワクチン開発に他の研究機関と連携して取り組んできました。今回の新型コロナウイルスのワクチンについても、これまでの経験を生かしてすでに遺伝情報に基づいたこのウイルスのワクチン開発に着手しています。ただ有効なワクチンを開発して人に接種できるようになるまでには、安全性の担保(厳しい規制)や資金の確保(流行終焉による研究費の枯渇)など克服すべき課題が山積しており、とても長い時間を要することには、忸怩たる思いがします。
振り返ってみれば、人類の歴史は細菌やウイルスなどが引き起こす感染症との闘いであったといえます。結核菌やコレラ菌を発見したロベルト・コッホに師事、ペスト菌の発見や破傷風の治療法開発などの業績から「日本細菌学の父」として知られている北里柴三郎を嚆矢とする感染症研究は、わが国においても脈々と受け継がれています。例えば、死の病と言われた後天性免疫不全症候群(AIDS)もすでに有望な治療薬が開発されており、着々と成果を挙げてきていますが、他の多くの感染症の根絶には残念ながら程遠い状況です。さてパンデミックウイルスによる感染症が世界的規模で発生するたびに生物の不思議に想いを馳せます。ウイルスは、それ自身のみでは増殖できないので、他の宿主細胞に侵入してその中のタンパク質合成装置などを巧妙に利用して増殖します。ウイルス自身は無生物的で、一旦宿主細胞に入ると生物のように増殖するので、よく「生物と無生物の間」といわれています。加えてウイルスは環境に適応するために頻繁な変異によって多様性を獲得します。そのため、有効な治療薬ができても忽ちにその治療薬に対して耐性を持つウイルスを出現させるので、その撲滅は困難です。ちょうどモグラたたきのようなあり様と例えても良いでしょう。
地球上には1000 万種にも及ぶ多様な生物が存在すると推定されていますが、その各々が何億年という気の遠くなるような時間をかけて試行錯誤しながら進化してきたものであります。この生物の誕生と生存の玄妙さには驚嘆するばかりですが、近年に登場した分子生物学は「生物の多様性とは、まさにゲノム遺伝子の多様性と同等である」ことを明瞭にしました。著名な進化人類学者であるスヴァンテ・ペーボが「PCR」という遺伝子増幅技術と「次世代シークエンサー」という遺伝子高速解析技術を駆使して絶滅した古代(4 万年前)のネアンデルタール人のゲノム解読に成功、「ネアンデルタール人が現生人類と交配した」という驚愕の事実を明らかにしたことは、その象徴的な出来事であります。このように生物の進化は、多くの人をその専門性の有無に関わらず、興奮の坩堝に誘いこみます。
最近、集団遺伝学の大御所である根井正利著の「突然変異主導進化論:進化論の歴史と新たな枠組み」(丸善出版)というかなり分厚い本を読みました。進化といいますと、ダーウィンの「種の起源」で有名な自然淘汰、即ち、生存競争において有利な系統が維持されるとする説と木村資生の「分子進化の中立説」、即ち、分子レベルでの遺伝子の変化は、大部分が自然淘汰に対して有利でも不利でもなく中立的であり、突然変異が進化の主因であるとする説があります。これら互いに相克した二つの卓越仮説は、後継者たちによって改良を企てられ、前者はネオダーウィニズム(生物の進化は、突然変異よりも自然選択の方がはるかに重要であるとする説)を誕生させ、表現型の進化は主に自然淘汰によって起こると主張します。一方、後者は太田朋子の「分子進化のほぼ中立説」(わずかに不利な「ほぼ中立」の変異でも、集団の規模が小さければ偶然広がる確率が高まるという説)に継承されてゆきます。これまでの膨大な論文を詳細に検証した根井「突然変異主導進化論」では、表現型の進化の原理と分子の進化の原理は同等であり、進化の原動力は突然変異であって自然淘汰は副次的な役割に過ぎない、即ち表現型も究極的にはDNAの塩基配列に支配されるため、分子と同様に主に突然変異によって進化するはずであると主張しています。ともあれ二つの説を木村資生は、素人向けに上手く解説しています。つまり、自然淘汰説survival of the fittest(適者生存)と中立説survival of the luckiest(運のいいものが生き残る)であります。まあ、多くの進化論は難しいですが、多少“ がさつ” であっても、この説明は分かりやすいので、誰でも首肯できます。少し卑近な話になって恐縮ですが、学術研究においても「運」に左右されることが屡々あり、偶然、予想外の幸運に遭遇して人生を豊穣にしてくれることがあります。私は研究者における最高の運は、卓越した先輩、切磋琢磨する同僚、優れた後輩たちなど多くの人たちとの良い出会いにあると思っています。素晴らしい仲間たちとの真摯な交流は学問の発展に拍車をかけてくれるのみならず人生を豊かにしてくれます。私の信条は、人と人との交わりこそ至高の歓びであり、幸運を手に入れて成功する秘訣であると思っていますが、如何でしょうか?
街道歩き(続編):昨年の挨拶文で、「旧東海道歩き」事始めの顛末を記しました。昨年2月3日、私が日本橋から、そして親友の永田和宏さん(細胞生物学者・歌人)が三条大橋から、同時に出発しました。その後、小田原宿から天下の険と謳われた箱根峠を越えて、旧道の趣が横溢した長い(足腰に大きな負担のかかる)石畳に閉口しながら、三島宿まで一気に歩きました。その後は、絶景の富士山を仰ぎ見ながらの駿河道でした。細長く広い静岡県には、薩埵峠・宇津ノ谷峠・小夜の中山峠など多くの厳しい峠がありましたが、眩いばかりの静謐な駿河湾を眺望しながら見渡す限りの茶畑を分け入って歩く旧道は、気持ちがよく心が晴れる思いで一杯でした。府中宿では、街道から少し離れていますが、久能山東照宮を訪れて歴史の息吹を堪能しました。また丸子宿では江戸時代から続いている丁子屋に立寄り、安藤広重の「東海道五拾三次之内丸子名物店」の版画で有名な名物の“ とろゝ汁” に舌鼓をうちました。日本橋を出発して6カ月後の8月初旬、三条大橋からやってきた永田さんと待ち合わせて中間地点の宿場町袋井(東海道どまん中宿)に到着しました。この日は、同じ研究領域の7名の仲間たちが結成した「七人の侍」の殆どのメンバーが集まってくれて、夕刻に慰労の大宴会となりました(写真)。その仲間の一人、伊藤惟昭さんが袋井の出身であり、彼から袋井市には、遠州三寺(油山寺・可睡斎・法多山尊永寺)という三古刹があることを知りました。そこでオートファジー研究の第一人者である畏友大隅良典さんを誘って三古刹を散策しました。田舎の古寺と高を括っていましたが、その素朴で味わい深い史跡の深淵さには、大隅さん共々感嘆しました。出身者の伊藤さんには失礼ですが、「袋井」という地名さえ知らなかった私には、驚きの発見であり、街道歩き旅の思わぬ余得でした。さてここまで旧東海道歩きの旅は、比較的順調に推移してきましたが、その後は暖冬とはいえ冬季に入ったこともあり急ブレーキがかかって、現在、宮宿(熱田神宮)の手前で足踏みしています。今後の歩き旅は、距離が遠くなり宿泊を余儀なくされるため、来春までに京都に辿り着けるかは微妙な情況でありますが、小さな夢の実現に向けて頑張りたいと思っています。