Apr. 2021 No.041
文永11(1274)年、通説では2~3万人ともいわれる蒙古軍が博多湾から上陸しました(元寇・文永の役)。侵攻は失敗しましたが、理由は諸説あって分かっていません。ただ、一騎討に拘って苦戦したという通説とは、当時の武士の様子は異なったようです。大宰府で防衛にあたった鎌倉武士団が着用した大鎧は、牛革を膠で加工した小札と鉄片で表面が覆われて矢や刀を通しにくく、楯を必要としないため馬上片手で日本刀が自由に使えました。そのうえ、和弓の最大飛距離は246メートルと、蒙古短弓の198メートルを50メートル近くも上回っていました。蒙古軍の刀は単層の鋼鉄製で折れないように刀身を厚くしたため重かったのに対し、日本刀は軟鋼と硬鋼の二重構造のため折れにくく軽量で、しかも湾曲しているため馬上から振り下ろしても刺さらず抜き切れました文献)。鎌倉武士団を助けた物作りのお家芸は、幕末に蘭学を学んだ理数系武士団へ受け継がれ、現在の科学者へと連なります。本号でもお家芸のにじむ11の記事をお届けいたします(糸川)。
文献: 播田安弘 日本史サイエンス 講談社 2020
集団騎馬突撃
「蒙古襲来絵詞(模本)」(九州大学附属図書館所蔵)を改変