2016年11月11日
英国科学誌「Nature Reviews Drug Discovery」on-line版にカルパインプロジェクトの小野弥子副参事研究員、反町洋之参事研究員らは、さまざまな生命現象の制御に必須なタンパク質切断酵素である「カルパイン」を標的とした薬剤開発への挑戦と新たな可能性に関して総括的な総説を発表しました。
(公財)東京都医学総合研究所の小野弥子副参事研究員、反町洋之参事研究員らは、さまざまな生命現象の制御に必須なタンパク質切断酵素である「カルパイン」を標的とした薬剤開発への挑戦と新たな可能性に関して総括的な総説を発表しました。
カルパインは、タンパク質の活性や機能を調節するタンパク質切断酵素です。この働きの不調は、神経変性疾患、虚血性疾患、筋・心疾患、がん、糖尿病、眼疾患、食道炎、痙性対麻痺、皮膚疾患、マラリア、住血吸虫症、白癬、歯周病など、様々なヒト疾患に関与しています。これらの治療にはカルパインの活性を抑える阻害剤などが有効な治療薬剤として注目され、研究・開発されています。
今回の総説ではカルパイン研究の歴史を総括し、最新の知見を基にした新規な戦略アイディアを示し、阻害剤の設計や治療法を提案するなど、これまでの成果が新たな展開を迎え、今後の挑戦を推進する可能性をまとめております。既にいくつかの薬剤は臨床試験に入っていますが、さらに有望な薬剤の開発の促進が期待されます。
本総説は独立行政法人理化学研究所脳科学総合研究センター神経蛋白制御研究チーム西道隆臣シニア・チームリーダーとの共同執筆で、2016年11月11日に英国科学誌『Nature Reviews Drug Discovery』on-line版に掲載されました。
細胞内には多彩なタンパク質が存在し、それぞれが一定の「形」を持つことによって、活性や機能を発揮しています。カルパインは、これらのタンパク質の一部分を切断して形を変化させ、タンパク質の活性や機能を調節するタンパク質切断酵素(*1)です。このカルパインの働きは、重要な細胞内伝達物質であるカルシウムによって活性化されます。カルパインの活性化が不十分な場合や、逆にタンパク質を過剰に切断した場合には、人間の身体、生体に様々な悪影響、即ち疾患症状が現れてしまいます。
私たちの身体の中には15種類のカルパインがありますが、そのなかで最も量が多くほとんどの細胞に存在するものを標準型カルパインと呼びます。そして、標準型カルパインのコントロールが上手くできない状態が、神経変性疾患、虚血性疾患、筋・心臓疾患、がん、眼疾患、早老症、などに関与することが分かっています。また、その他にも様々な種類のカルパインが存在して、カルパイン遺伝子の変異が、筋ジストロフィー、食道炎、など広範な病態「カルパイノパチー(*2)」を引き起こすことが明らかとなっています。さらに、寄生虫や微生物による様々な感染性の疾患(マラリアなどのNTDs(*3)、カンジダ症、白癬や歯周病など)も、病原生物の持つカルパインが病態や病原体の生存に関与することから、微生物のカルパインと私たちの健康との関係が注目を集めています。
ここに挙げた多くの疾患のケースで、カルパインなどの活性を抑えると、症状が緩和することが判明しており、カルパインの活性を阻害する分子は疾患治療のための有効な薬剤となりえます。しかし、そのような薬剤(阻害剤)を開発する際に、カルパインが相手のタンパク質を正しく見分けて特定の部位を切断するための仕組み(ルール)やカルパイン自身の働きが複雑で、不明な点が多くあることは、大きな障壁となります。そのために、カルパインだけを標的としてきちんと抑制できる特異性の高い薬剤の開発は難航していました。
近年、タンパク質の形を“原子のレベルで見る”技術や遺伝子の操作技術が飛躍的に進歩してきました。その結果カルパインが、どのように相手のタンパク質を識別しているのか、また、カルパインに影響を与える細胞内外の様々な要素は何か、徐々に明らかになってきました。これは、カルパインに特異的な薬剤の開発を画期的に推進するものでした。
今までは、薬剤が期待される治療効果を持たなかったり、強い副作用を示したりするため、開発途上で断念されることが多かったのですが、それは上述のような特異性の低さが強く関わっていました。しかし、カルパイン研究の飛躍的な進展に伴い集積されつつある知見を用いることで、ある薬剤がカルパインに対して高い特異性を持つのかどうかがより正確に判断できるようになりました。副作用がない効果的かつ安全な薬剤を開発する環境が整ってきたと言えます。
その証左として注目されるのは、今年に入ってアルツハイマー病の臨床試験に、カルパイン阻害剤ABT-957が用いられ、また筋萎縮性側索硬化症(ALS)の臨床試験に、カルパインの活性抑制を引き起こす薬剤オレソキシムが使われたことなどがあげられ、いずれも今後の展開が期待されています。
カルパインの50年以上におよぶ研究の歴史の中で先人たちの積み上げた多くの知見を俯瞰すると、各時代においてそれらがいかに先進的であったかに驚かされます。現在、疾患治療の標的としてのカルパインの重要性は、疾患とカルパインの関わり方の多様性からもますます明白です。カルパイン遺伝子変異による疾患の研究についても、カルパインを標的とする薬剤開発と相乗的に発展していくことが予想されます。
この総説を執筆することは、最新の知見をさらに斬新なアイディアへと展開し、挑戦することが、今後のカルパイン研究に期待されていることだと強く再認識する機会となりました。ここにまとめた知見とアイディアを基に、さらにカルパインの研究が促進され、カルパインへの理解が深まり、様々な疾患の発症機構の解明や治療法開発に役立つ薬剤の発見につながることを願ってやみません。