Apr. 2022 No.045
副所長(新型コロナ対策特別チーム 統括責任者)糸川 昌成
「渋い」という日本語がある。思わず渋柿や渋茶を思い浮かべてしまうところだが、アメリカ生まれの日本文学研究者ドナルド・キーンは、味ではなく日本美学を代表する言葉として「渋い」を取り上げている1)。キーンは日英辞典で「Shibui(渋い)」をひくと、控えめ、洗練されていることであると述べ、この日本語が意味する美的表現上の性格を日本芸術の典型とした。岩と砂だけで山水風景を表現した日本庭園枯(かれ)山水(さんすい)の枯淡(こたん)、飾らない簡素な線だけで縁取られた神社建築、装飾と無縁な能舞台。彼があげた控えめと洗練の美である。キーンはこれらの対極として、手が込んで作り込まれたアルハンブラやヴェルサイユの幾何学的で整然とした造園をあげた。
平安中期の歌人、藤原公任(図1)は歌の秀逸を「詞の妙を尽くして余情のあらわれる境地」とし、次の歌をあげた。
公任によれば、この歌が優れているのは、言葉で表現されなかった仄めかす力にあるという。舟に自分の愛人が乗っていること、あるいは歌人自身がその舟に乗っていたいという心が明かされないことによって、歌は豊かにふくらむのだ。アメリカの小説家エドガー・アラン・ポーも、暗示は曖昧さゆえに神秘的な効果を醸し出すと述べた。日本語の曖昧さ ― 主語が省かれ、単数と複数、定冠詞と不定冠詞といった文法上の区別がない ― が、少なくともそのような区別に慣れている西洋人のキーンには、詩歌の暗示的効果に貢献しているように思えたのだ。
この控えめの美学とは、いったいどこから来たのだろうか。内科医で元国立環境研究所所長の大井玄は、限定的な地域で社会を形成し、数世紀以上の長期間適応し続ける環境を閉鎖系と呼び、ヨーロッパや北米大陸のように移動の自由が担保され、環境資源を制限なく使い尽くせる開放系環境と対比させた3)。進化生物学者ジャレド・ダイアモンドは『文明崩壊』の中で、イースター島の森林消滅と社会崩壊、マヤ帝国の衰亡、グリーンランド移民の絶滅などを分析した。これら環境適応失敗の要因として、長期の内紛と戦乱、富の分極化と無制限な物質的豪華さへの欲望、森林破壊と土地浸食などをあげた4)。日本は国土の8割が山岳地帯で2割の堆積地に耕作が限定される。こうした閉鎖系環境では、ダイアモンドがあげたような要因は絶滅に直結する。1万年以上も絶滅を免れた縄文人を先祖に持つ日本列島の住人たちに、勤勉と相互協調、過大な欲望の制御を前提とした倫理意識が育ったのは自然なことではなかったろうか。
江戸時代の倫理学者、石田梅岩は士農工商を職能区分と述べた。商人が正直に「利を得る」のは、武士が「禄を得る」のと同等であり、上下の身分ではなく職分であると説いたのだ。梅岩の説く職分は、労働領域ではなく神の召命-神から召された使命-をさしたプロテスタンティズムの「天職」に近い。梅岩は士農工商が正直を基本にして、倹約し勤勉に働き和合することが重要とした。梅岩の説いた心学運動を学ぶ学舎は、19世紀半ばには34藩180ヶ所に増え、学舎で学んだ者は3万6千人にのぼった3)。狭く貧しい閉鎖系の世界に適応的な、私欲・利己心を排した倫理意識が、梅岩の説く職分として広く受け入れられたとも考えられる。
梅岩の倫理観が広まった背景には、江戸時代に「壱人両名」と呼ばれた、百姓や町人が下級役人の仕事を分担した兼業制度の存在もある5)。「苗字御免」「勤中帯刀」という制度が整備され、「役儀」勤務中のみ百姓・町人に苗字帯刀が許された。仕事が終わって家に帰ると、私用で帯刀してはならない。個人への許可が「其身壱人」と表現され、任用期間中ずっと許可されるものではなく、勤務時間と特定の場所だけに許された。閉鎖系の倫理意識に支えられ私心を捨てて職分に正直に働く矜持は、控えめの美学を生み出したコスモロジーと矛盾なく調和してはいないだろうか。
千葉県松戸市の日蓮宗本土寺の過去帳には、室町中期から戦国末期の200年の1万を超える物故者の享年、死亡場所、死因が日付ごとに記載されている。この過去帳によると年間の死亡者数の変動パターンは春夏の端境期に死者が増え、秋の収穫期に低下し冬の終わりから再び増加する。つまり食べるものがない季節に死者が増えており、餓死あるいは飢えに関連した死亡が恒常的だったことが分かる。
いっぽう、江戸時代後期の回向院の過去帳では、死亡の季節性が中世とはっきりずれ収穫期の死亡低下が見られなくなる。死亡の主要原因が飢餓から夏季の病原性微生物による消化器疾患や冬季の呼吸器疾患へと変化したのだ3)。
そして、令和の現在、人類は世界規模のパンデミックに直面している。2022年1月に新型コロナの累計死者数は543万人とWHOが発表した。第一次世界大戦の死者数が900万人6)というから、まさに世界大戦水準の人命が失われている。
都医学研は2020年5月に新型コロナ対策特別チームを発足させた(本誌39号で紹介)。特別チームは研究者のみならず事務局から支援部門までを含め3グループ9班で編成され、所をあげて新型コロナウイルスに立ち向かっている。本誌41号でも紹介したように、特別チームの西田淳志社会健康医学研究センター長は、携帯電話の位置情報を用いた主要繁華街における夜間滞留人口(人流データ)をモニタリングすることで、新規感染者数の推移を予測して都の新型コロナウイルス対策を支援している。小原道法特別客員研究員は、天然痘ワクチンに使用実績があるワクシニアウイルスを用いて新型コロナウイルスのワクチンを開発し、ワクチンを接種したモデル動物で抗体産生実験を成功させた。さらに、小原研究員は14の都立・公社病院の協力で毎月3,000例の抗体を測定し、都内の感染の推移を東京iCDC(東京感染症対策センター)へ報告した。14病院すべてが連携した大規模共同研究は初めてのことで、2020年9月から抗体を計測した被験者数は延べ2万3,234人に及んだ。2021年3月末までの年齢・性別・地域を補正した抗体陽性率は3.4%だった7)。解析したのは一般外来診療科の余剰検体なので、発熱外来や新型コロナウイルス陽性者を除外した無症状者が対象となる。したがって、無症状のまま過去に新型コロナウイルスの感染が示唆される都民は47万778人(3.4%)いた計算になり、この人数はPCR陽性者として発表されている都民の3.9倍だった(図2)。毎日発表される新規陽性者数の数倍が、既に無症状のまま感染している事実を科学的データとして初めて示したのだ。この成果を発表した小原研究員の論文は科学技術情報発信・流通システム(J-STAGE)が公表した二年間の原著論文で、最も高いオルトメトリクス・スコア註)を示し注目を集めた。病院の医師、職員には新型コロナウイルスの最前線にありながら検体を提供いただき、特別チームでは抗体検査班、契約班、都立病院等連絡調整班、都庁等連絡班、機器調整班と、それぞれの部署が本来業務と両立させながら大規模抗体計測プロジェクトを実現させた。
梅岩の倫理意識は、現代でもなお都医学研と14病院を貫いているのだ。
註)オルトメトリクス・スコア:学術論文の影響度を評価する指標